深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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モンテーニュ『エセー(6)』
エセー〈6〉 (ワイド版 岩波文庫)エセー〈6〉 (ワイド版 岩波文庫)
(2002/07/16)
ミシェル・エイクム・ド モンテーニュ

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 もしもわれわれが生き方を知っていないなら、われわれに死に方を教えて、終りだけを全体と違うものにしようとするのは間違っている。もしもわれわれが着実に平静に生きることを知ったとすれば、同じように死ぬことも知るであろう。哲学者はいくらでも自慢するがよい。《哲学者の一生は死の考察である》と。けれども私の考えでは、死はたしかに生の末端であるが目的ではない。終極ではあるが目標ではない。生はそれ自身が目的であり、その目指すところでなければならない。生の正しい研究とは、生を整え、生を導き、生に堪えることである。このいかに生きるかという普遍的な重要な章にはいろいろな義務が含まれるが、いかに死ぬかという項目もその一つである。しかも、われわれの不安が死に重みを与えさえしなければ、きわめて些細な項目に属するものである。

モンテーニュ『エセー(6)』


 少し前に「徒然草」を手をとったときから読んでみたいと思っていたモンテーニュの「エセー」。ようやく岩波文庫版「エセー」全六冊を読み終えた。

 読み始めたころはとんでもないものに手を出してしまったかもと思っていた。冗長で退屈な部分が目につき、六巻まで投げ出さずにいられる自信はなかった。

 しかし二分冊目に入ったところですっかりはまったしまったと以前書いた。自分のことばかりを考えながら自らを飾らず、他人との議論を楽しみ快活さを失わない著者に魅きつけられた。

 六分冊目では、この試論も佳境に入り、「書物について」の章で語ったように、「いかに生きいかに死ぬか」といった問題に答えようとした記述が増えてくる。
 一つ前の五分冊目と同様にモンテーニュの語り口には自信が見え、迷いが感じられなくなっている。この変化が強い印象を与える。

 上に引用したところのように、モンテーニュには、哲学者の展開する難しい議論を軽視するような態度が顕著になってくる。

 最後の「経験について」の章では自然が陶冶するような経験、知恵を重視していく。頭を使ってあれこれと考えるよりも、自然の摂理に身を任せようとする。

 私は人生の快楽をこんなに熱心に、特別にいだいて自慢しているが、こうして仔細に眺めてみると、そこにはほとんど風しか見いださない。だがそれがどうだというのだ。われわれはすべてこれ風ではないか。そしてその風さえも、われわれよりも賢明に、音を立てて動き廻ることを好み、自分の仕事に満足して、自分の性質でない安定や堅実を望もうとしない。

モンテーニュ『エセー(6)』


 こういった考えは聞くとすぐに老荘思想を思ってしまう。「水」に対してモンテーニュは「風」という比喩を使うのもとてもおもしろいと思った。

 しっかりと読めてない章も多いので、またゆっくりと読み直したい。今回は図書館で借りて読んだのだけれど、手許に置いておきたいなと思わされた。

モンテーニュ『エセー(1)』
モンテーニュ『エセー(2)』
モンテーニュ『エセー(3)』
モンテーニュ『エセー(4)』
モンテーニュ『エセー(5)』
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