深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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中島義道『「時間」を哲学する』
時間を哲学する―過去はどこへ行ったのか (講談社現代新書)時間を哲学する―過去はどこへ行ったのか (講談社現代新書)
(1996/03)
中島 義道

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 一〇〇億年以上にわたる宇宙論的過去も簡単に了解してしまうのは、やはりわれわれが過去の体験を現に想起できるという一点に行き着く。そして、過去とは現に私が想起していることの全体ではなく、およそ想起可能なものの全体だという了解に行き着くのです。
 なぜ、過去においてはこうした可能性の領域がごく自然に開けてくるのか。それは多分われわれは「忘れる」という現象をよく知っているからです。昨日の光景ですら、ほとんど忘れている。あとで同時刻の写真を見たら、いかに多くを自分が忘れているかを認めざるをえない。
 つまり、「想起」という概念はもともと「忘れる」という概念を含意しているのです。「忘れる」ということは、現に想起している内容が過去のすべてではないということを含意します。過去は現に憶えていることのみならず現に忘れていることも含んだ総体、すなわち「想起可能なものの総体」なのです。

中島義道『「時間」を哲学する』



 先日「はじめての〈超ひも理論〉」という本を読んでさっぱりわからなかったのですが時間に関する部分が面白く、哲学ではどう扱ってきたのかなと思い読んでみました。

 私たちはよく「もうこんな時間か!」という言葉を口にするように、客観的な時間と印象的な時間は往々にしてずれる。こういったところからベルクソンなどの哲学者は何かに没頭して時の経過を忘れる印象的時間こそ本当の時間だと言ってきた。

 しかし著者はそうではないという。客観的な時間を生み出すのは、過去に原因を求める人間の本能的(因果律)な側面だという。

 このように客観的な時間と印象的な時間はずれる。これは客観的な時間を空間的なものとのアナロジーで語ることから生じる誤りであるとする。
 そして世界が五分前に創造されたとしても、つじつまさえあえば人はそれに気づかないという「世界五分前仮説」を説明し、過去はもう存在せず、想起によって言語的に捉えられるだけだとする。

 そして現在と「もう現在ではない」過去とこの二つは表裏一体であり、「現在にはもうないが確かにあった」過去こそ、あったものがないと語ることのできる「不在のへの態度」の根源なのではないかと著者はいう。


 というわけであまりうまく整理できていません。とはいえ、現在と過去には概念的な差異よって分けられるという点、時間こそがあらゆるものの「不在への態度」の始まりだとする点はとても面白いと思います。

 そして最後の<今>についての考え方も素敵だなと思いますね。

 しかしこのような時間論では記憶はどういうふうに位置づけされるかが気になります。
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