![]() | 「世間」とは何か (講談社現代新書) (1995/07/20) 阿部 謹也 商品詳細を見る |
しかし無常にはそれだけでなく、もう少し積極的な意味がある場合もある。それは世間や世の中のあり方の中で改名すべきなのである。つまり世間や世の中のさまざまな掟に縛られている個々の人間としては、自分なりの生き方をしたいと思っても容易にはできない。人々はそのようなとき、自分の諦念の感情を「無常」という形で表現してきたのである。「世は無常」という形はその表現のひとつなのである。無常についてはこれまでさまざまな解釈がなされてきたが、それらは皆世間や世の中との関係をぬきにして論じられる傾向が強かった。しかし、世間という概念を対象化して初めて、無常についても解明することができるのである。
阿部謹也『「世間」とは何か』
少し前に訃報を聞いて読もうと思っていたのだがようやく読むことができた。
ここでいう「世間」とは、明治期に西洋から輸入された、自立した個人が構成する society の訳語である「社会」と対立する言葉として使われている。
世間とは日本人がその中に入る狭い人間関係の環のようなもので、構成員はそれによって拘束され、長幼の序や贈与・互酬の原理を課せられる。
著者は「万葉集」から順に日本文学の古典を紐解きながら、そこに現れる「世間」という言葉の使われ方を通して、その実体を浮き彫りにしていく。
和歌は個人の感情が表出するものであり、著者は「万葉集」の中に個人と世間の緊張感を読み取り、「源氏物語」には宮中といった狭い人間関係を指し、一般社会という意味では使っていないといったことを読み取っていく。
山本七平が西洋との比較によってなかなか見えにくい日本の人間関係図式を捉えたように、著者は日本の歴史で例外的に「個人」たりえた吉田兼好や井原西鶴、永井荷風などを通して捉えていった。
「あとがき」で述べているように、世間をどう扱っていくべきかというヴィジョンを示しているわけではない。世間というものをまず捉えようというスタンスで記述されている。
そういった点でもの足りなくはあるけれも、色と金を追求した西鶴の物語に登場する人間には驚かされたし、永井荷風にも改めて興味を持った。
そして金子光晴という人物を知ることができたのも収穫だった。引用されている「絶望の精神史」の一節にはぞくぞくと寒気を感じた。
金子光晴が感じたように西洋的な人間関係はそれはそれでつらい面もあるだろう。つまはじきにされないように世間に属している限り、その構成員は安定を得られる。けれども世間はそれぞれの個人の自由な行動を拘束する……。
とても考えさせられる一冊でした。
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