深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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山本七平『「空気」の研究』
「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/01)
山本 七平

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 だがここでわれわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。従ってこの現実である「水」は、その通常性として作用しつつ、今まで記した「一絶対者・オール3」的状態をいつしか現出してしまう。ちょうど「雨」にたたかれていると一切が腐食で崩れて平坦化していくよう情況である。ただ一つ残るのは、「絶対者=情況倫理をつくり出す起点」はゴム尺をとめる〝原点〟の固定点で、結局はこの固定点の「意志」だけが絶対視しされ、他は平等だから、意志決定は最終的には、この固定点にしかない。もっとも固定点は直接に命令を下す必要はなく、情況を創設すれば十分なのである。従って平等者はこの固定点に直接に判断を求めることは例外的にしかできない。そのためこの固定点をそれが創出する情況に応じて臨在感的に把握する以外に方法がなくなるいわば、「聖意を体して……」以外になくなるわけだが、そう把握すると、「空気」ができてしまうのである。従って「空気」を創出しているものも、結局は「水=通常性」なのであり、われわれは、この空気と水の相互呪縛性から脱出できないでおり、この呪縛の中には固定的規範は入り得ないわけである。

山本七平「『空気』の研究」より


 空気が読めないという意味で「KY」という言葉が流行したりと気になっていたので読んでみました。私が読んだのは図書館で借りたライブラリー版ですが、絶版のようなので文庫版にリンクしておきます。

 日本の近現代史、特に共産党史や執筆当時の事件などの知識が前提とされているため、その時期を経験していない私にはなかなか難解でしたが、とても興味深い本でした。

 この一連の論考は、「『空気』の研究」、「『水=通常性』の研究』、「日本的根本主義について」の三章から構成されています。

 以下かなり長いですが、章ごとのメモ。
 著者は戦艦大和の出撃を振り返った最高司令官が「ああせざるを得なかった」ということを引き、日本人を時には破滅と知りながら論理的な反論も効果なく、行動に駆り立てる「空気」としか呼べないものを考察していく。

 著者はこれを何かの対象を臨在感的に把握し、それに感情移入し、それを絶対化してしまうことで逆にそれに支配されてしまうということだとする。

 最近の例をとれば、小泉元首相が「聖域なき構造改革」というスローガンを掲げると、それが独り歩きし「構造改革」それ自体が善であると皆が思い、それに反論する人間があればその内実を問わず「抵抗勢力」と呼ばれ退けた事態を思い浮かべればいいと思う。たぶん。

 しかしこれは日本だけに特有なものではなく、西洋ではプネウマやアニマと呼ばれるものに相当し、それに拘束されると宗教的な狂乱状態に陥ってしまうことは知られていると著者はいう。徹底的に偶像を排する文化はこの危険性を知っていた。

 日本では明治の啓蒙主義がこういった「霊の支配」を野蛮なものとして抹殺しようとしたが、現に存在するこの体験を捉える術を失わせる結果となり、「空気」と呼ぶほかなくなったのである。

 しかしこの絶対的な「空気」に抵抗する方法が日本に全くなかったわけではない。いわゆる「水を差す」という行為によって、その熱狂は冷めてしまう。

 ところが、明治以降の啓蒙主義がこの「空気」に対する「水」の効力を失わせてしまい、
戦争へ突入していったというのが著者の考えである。


 ここで著者は「空気」とセットになっている「水」について考察していく。

「水を差す」とは自己の情況を素直に口に出すことであり、それによって熱狂していた人びとは我に返り、通常性に戻っていく。

 この水は恒常的に作用し、外来の思想、儒教や仏教をも変容させ取り込んでしまう消化酵素の作用のような働きをする。この消化作用によって戻っていく通常性とは、著者によれば「一君万民」的な関係図式、集団倫理である。

 著者は日本の共産主義も日本に入ってくると次第に変容し日本に取り込まれていったことを指摘し、日本共産党のリンチ事件を取り上げる。

 戦前に起こった「日本共産党リンチ事件」では「当時の過酷な情況下ではああするのが正しかった」のだという日本的情況倫理が持ち出された。これは非難されるべきはその情況を作り出した者であり、情況に従っただけで自分は悪くないという「自己無謬性」「無責任性」を主張している。

 ここから出てくるのは、個性を全く無視し、情況が同じであれば皆同じように行動するという平等観であり、異常な行動は情況が違うからだという説明がまかり通る。

 しかし何らかの固定された倫理が存在しなければ定まらないから、一人の人間を支点とし、それを権威として従うという形をとる。その絶対者の他は平等という原則が「一君万民」という形になるのである。

 日本人が最終的に戻っていく通常性とはこういった「一君万民」的関係に行き着いてしまう。そしてこの土壌こそ「空気」を醸成してしまう体制ができる。

 儒教も仏教も自由も民主主義もこの関係を守るために次第に変容してしまうのである。父(絶対者)が罪を犯しても、子たちはそれを隠し、事実はどこまでも歪められていく。

 この体制にとって最も都合の悪い人間であるこの虚構性を指摘する自由な個人は排除され、閉鎖的になる。そして自由な発想の許にしか生まれない創造的な問題の解決といったものが不可能になってしまう。

 明治憲法は、それが発布された時点においてはそれなりの合理性と何らかの非合理性と何らかの有用性(特に外への誇示として)とを持ち得たかも知れぬ。しかしそれは、日本的非合理性の上に立ってその〝力〟を制御して、改革にも転化させるべく構成されたものではない。従ってそれが強力であれば、非合理性はそれ自らで合理性へと思考する活力を抑えられ大正的無目的性(三木内閣的無目的性でもよい)へと転化し、非合理性をそれ自らで合理性を自らに内在せざるを得なくなる。だが、内在した非合理性が外部的・内部的要因から、一つの解決を目指す〝力〟に転化して暴走をはじめたとき、その憲法は、制御装置としての力は発揮できず、実質的には空文と化してしまう。それがわれわれの歩んできた道であった。そしてその破綻の清算において、もう一度同じことをやり、それを「お守り」の如く保持すれば大丈夫という「神話」をそのまま継承したのが戦後である。

山本七平「『空気』の研究」より)


 この日本的体制が問題を孕むとしても、「水を差す」というバランスが太平洋戦争突入時には働かなかったのかという疑問は残る。

 上で少し触れたが著者はそれ明治の啓蒙主義者たち行った急速な西欧化政策によると指摘する。

 西欧は「聖書絶対と合理性」が絶えず矛盾をはらみながら相対化するというシステムを構築してきた。しかし明治日本はその合理性の部分だけを取り出し、主に対外的な目的で憲法を導入した。

 当然、日本にも非合理性(空気)と合理性(水)の二側面がバランスをとってきたシステムであったのに、その点を考慮せず、西欧的合理性を導入した。故に、非合理性エネルギーが暴走しても制御装置が働かなかったというのである。

 戦後の日本人は過去の反省から「水を差す自由」がなければならないと考えている。しかし沸騰しては冷めてを繰り返すシステムは長期的かつ未来的な展望を描くことができない。この日本的なシステムをきちんと見つめ、個人が自由な発想を行えるシステムに改善していくことが求められているのだろう。


 この考察の中身も面白かったのだが、実際に存在するものを無視して抹殺しても、現に存在するのだから見えなくなったそれに支配されてしまう。

 本当の現実主義者ならば、それを可視化して、それを抑えうる対策を作り上げるものだという指摘には目から鱗が落ちる思いだった。これはいろんな場面で有効な考えだと思う。

 また、それぞれの民族の歴史がつくりだしてきた一つの規範システムが当然存在し、それは容易には変わらないのだという指摘は興味深く、そういった著者の分析スタイルには学ぶべきところが多かったように思う。それはやはり聖書を研究し、彼我の倫理的規範の違いを考え続けた人間の視点だと思う。

 さて著者は西洋的な「自由」を日本の中にどう取り込むかを考えていたようだが、この点については他の著作で触れると述べている。著者の聖書関係の著作も読んでみたくなった。
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