深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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レフ・トルストイ『懺悔』
懺悔 (岩波文庫 赤 619-0)懺悔 (岩波文庫 赤 619-0)
レフ N.トルストイ,原 久一郎

岩波書店
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 実際、鳥は翔び、食物を集め、そして巣を作らなければならないように、この世の生をうけているのだ。そして私は、鳥がそういう仕事をやっているのを見る時に、彼らの喜びをうれしく思うのである。また山羊や兎や狼は、身を肥やし、子を生み、子供たちを養わなければならないように、この世の生をうけている。そして彼らがそうした仕事をやっている時、私の胸には、彼らは幸福でありその生活を正しいという、堅い認識が生まれるのである。しからば人間はいかなることをなすべきであるか? 人間もまた動物と同じように、その生活をいとなまなければならないが、ただ、自分一人でそれをやったら人間は滅亡しなければならないのであって、あくまでもそれを自分一人のためではなく、万人のために行わなければならないのだという、この点に相違が存するのである。で、人間が自分一人のためではなく万人のために生をいとなんでいる場合、私の胸には、あの人は幸福だ、あの人の生活は正しいという、堅い信念が湧き出るのである。それでは一体この私は、三十年にわたる意識的生活において、そういうことをやって来たか? 私は万人のための生活をしなかったばかりでなく、自分一人のためにさえ、生活の資を稼ごうとしなかった。まるで寄生虫のような生活を続けて来た。そして、何のために自分は生きているのか? と自分にたずねて、何のためでもない、という答えを得たのである。人生の意義が、それを守り立てるということに在るならば、三十年の間、自己のためまた他の人々のために、これを守りたてるということではなく、絶滅させるということに従事して来たこの私が、《自分の生活は飽くと無意味の連続である》という解答以外、いかなる解答をも得られなかったのはむしろ当然である。

レフ・トルストイ『懺悔』


 この前、小林秀雄の『作家の顔』を読んだとき、トルストイの「わが懺悔」について絶望から立ち上がろうとした作品だと触れており、やっぱりいつかは読まねばと思っていた。

 そんな折も折、2月の岩波文庫の復刊で、この『懺悔』が重刷されることを知って、これは良いタイミングと思って読んでみることにした。

 作家として世界的な名声を得て何不自由なく暮らすことのできるはずのトルストイだったが、壮年に差しかかり、人生は無意味という絶望に取り付かれてしまう。その苦しみとそれをどのように乗り越えたかを克明に記したのがこの『懺悔』になる。
 以下メモです。

 当時のロシアの知識人はギリシア正教徒であっても、その信仰は形骸化しており、行動規範としての役割は果たしていなかった。知識人は金と名誉に執心する不道徳な存在でありながら、進歩のリーダーを気取っていた。

 そんな空気の中、トルストイ自身も裕福な家に生まれ、若くして著作家としての名声を博し、社会事業にいそしみ、健康な肉体を持ち、妻子も得て、申し分のない生活を送っていた。

 ところが壮年時に差しかかり、人生に意味はあるのかという問いに苦しむようになっていったという。人生は無意味だという思いにとらわれ、避けがたい死の恐怖に震え、その苦しみから逃れるために死を求めさえするようになった。

 トルストイは科学や哲学に答えを求めたが、得られなかった。ならばと、周りの知識人を眺めても快楽にふける、自殺する、あるいはトルストイのようにずるずると生き続けると様々だったが、どれも苦しみを取り除くことはできなかった。

 それでも連綿と続いてきた人々の生の営みを思い、多くの人々が日々暮らしていることに思いをはせたとき、トルストイは自らの思考に誤りがあるのではないかと感じ始めた。

 こういった人々に生きる意義を与えていたのは信仰であった。トルストイは自らの理性をとるか、不合理に思われる信仰を取るかで悩む。

 ここでトルストイは問題の本質を次のように理解した。理性によってこの問題に解答することはできない。有限である生を無限と結びつけることのできる信仰によらなければならないのだ。

 信仰は理性とは別の領域に存在し、理性から見ればどれほど不合理に見えても、ずっと昔から人々が用いてきたこの知識を捨て去ってはいけないのだと。

 再び信仰について観察し始めたトルストイは暇を持て余す上流階級の持つ信仰は虚偽であることを見抜く。そして本当の信仰を、額に汗して働く民衆の中に見出したのだった。

 そして自らの快楽主義的な生活が悪であり、それ故に迷いにとらわれてしまったのだと知った。

 そして自身の生活を振り返り、神とともにあるときにだけ生き甲斐を感じていたことに気づき、生命の原動力であることに気づいたのだった。

 再び信仰に立ちかえったトルストイだったが、教会や儀礼に対して無条件に従うわけではなかった。なぜギリシア正教はカトリックその他の宗派といがみ合わなければならないのか。自らが受け入れることのできる信仰の探求は続く。


 繰り返しになるが、裕福な貴族の家に生まれ、社会的名声も確立したトルストイが一歩間違えば自殺しかねない絶望に捉われた。ぱっとすぐには信じられないが、トルストイは自らの苦悩の軌跡をえぐるように分析していく。

 トルストイは自らの苦しみを次のような東洋の寓話を使って説明している。草原で猛獣に追いかけられた旅人は必死の思いで井戸に飛び込んだ。ところが井戸の底には竜が口を開けて待ち構えていた。

 すんでのところで灌木に掴まったものの、その枝をねずみがかじり始める。今は枝についた甘露が旅人の喉をうるおしても絶体絶命の状況では何の官能も呼び起こさないのだった。

 このような苦しみにトルストイはあらゆる方法を試みて理性的に解答しようとする。しかしことごとく失敗する。人生に意味はない。この苦しみから逃れるには死ぬしかないと。

 しかし、どこか違和感の残っていたトルストイは周りの貴族階級から視野を広げる。そこには素朴な信仰にしたがって生きる民衆の姿があった。

 およそ生きとし生けるものは自然に子を生み養い育てるという生の営みを行っている。しかしトルストイら貴族は働くこともなく享楽的な生活を送っている。この悪しき生活こそ苦しみの根源であったとトルストイは気づいた。

 理性では決して神の存在を捉えることはできなかった。それでも神を求める気持ちは残った。それどころか、それまでを振り返り神を求めているときにこそ、自分は本当に生きていると実感できていたことに思い当たった。神なしでは生きていかれないことにはっきりと気がついたのである。

 トルストイはこのときの精神状態を次のようにたとえている。対岸を目指すように言われ小舟に乗せられて漕ぎ出す。しかし流れは速く、訳もわからず下流へ押し流されていく。周りを見渡せば、同じように流されていく人々がいる。

 次第に流れは激しさを増し、転覆した舟の残骸を見るに到って、はっと振り返ると、そこには流れに逆らって岸に向かって進んで行く無数の人びとがいる。その岸こそ神だったのだ。


 何不自由なく生きていくことができるということ。それ自体が苦しみだった。神を求めることでしか生きていくことができないというトルストイの結論は、灯台下暗しのような感じがするものの、心をえぐり出すような率直な告白は胸に迫ってくる。

 トルストイの小説と関連する部分も多く、興味深く読むことができた。なかなか難しく感じる部分も多いけれど、理性では決して捉えられない神を求めて生きたいという気持に従おうとする姿には心を動かされる。

 旅人の寓話や小舟のたとえ話などは、民衆の教化のために寓話を使うようになっていく姿を思わせて、読んでいておもしろいだけでなく、強く印象に残った。

 信仰に立ちかえったトルストイがなぜ教会から破門され、野垂れ死ぬように死んだのか、不思議にも思える。しかしこの『懺悔』では、かなり激しく教会を攻撃しており、自らの信仰を創り上げようと試みていたことがわかる。


 トルストイは何作か読んだことがあるだけだけれど、この真摯な告白を読んでトルストイの人となりや考えがより身近になった気がする。

 昔読んだ作品も今読めば印象が変わるかもしれないので、気力があれば読んでみたいなと思う。とりあえずいつのまにか『コサック』の新訳が出ていることを知ったので、これは近いうちに買って読んでみたいと思っている。
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