深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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林芙美子『浮雲』
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林 芙美子

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 ゆき子は、富岡の軀にあたためられながらも、もっと、何か激しいものが欲しく、心は苛だっていた。こんな行為は男の一時しのぎのような気もした。伊庭との秘密な三年間にも、こんな気持ちがあったのを、ゆき子は思い出している。もっと力いっぱいのものが欲しいといったもどかしさで、ゆき子は富岡から力いっぱいのものを探し出したい気で焦っていた。富岡もまた、女を抱いていながら、灰をつくっているような淋しさで、時々手をのばしては、ビール壜のカストリを、小さい硝子の盃にあけてはあおった。時々、ゆき子も一息いれては、寿司をつまんだ。まだ、夜がいっぱいあるような気がして、寿司を舌の上にくちゃくちゃと嚙みしめながら、ゆき子は、畳の上に火照った脚を投げ出したりしている。夥しい二人だけの思い出がありながら、実際には、必死になってゆくほど、相反する二人の心が、無駄なからまわりをしているに過ぎないのだった。これからの、先途について、二人は語りあうでもなく、一切の現実を忘れて、ひたすら昔の情熱を、もう一度呼び水する為の作業を試みているようなものであった。時々、二人は力が抜けるような淋しい気になり、この貧弱な環境のせいなのだと、そっと、お互いに鼻を寄せあって、相手の息の臭さにやりきれなくなっているのだった。

林芙美子『浮雲』


 林芙美子というと作品の『放浪記』の方が有名で、むしろ森光子さんの舞台との絡みで語られることがほとんどだと思う。

 先日、NHKのラジオで「若い女性」という、当時の女性たちの質問に答える林芙美子の肉声を聴いた。今まで彼女の作品を読んだことはなかったけれど、率直に回答する感じや貧しい幼少時の思い出やそこから培った考えに心を惹かれた。

 小林多喜二の『蟹工船』を聴いて朗読も思ったより楽しめるとわかったので、これもラジオでやっていた『浮雲』を聴いてみることにしたのだった。
 全40回という分量に不安を覚えていたのだけれど、戦後すぐの作品ということで言葉も現代に近く聴きやすい。ゆき子や富岡と主要人物に視点が固定されているわけではないので、少し引っかかるところもあったけれど、すんなりと入って生けた

 そして何より青木裕子さんの朗読がすばらしかったのも大きいと思う。人物がきっちり演じ分けられていて、活き活きとしていた。

 とこがこの朗読、全体の3分の2が過ぎたところで、第1部完として終わってしまう。続きが気になってしょうがないので、本を探しに走るはめになった。


 戦時中、仏印のダラットへタイピストとして赴任したゆき子は農林省の職員富岡と出会う。はじめは反発する二人だが、次第に刃傷沙汰にもなる深い関係になっていく。

 戦後、日本に戻ったゆき子は富岡と生活を立て直そうとするが、富岡には妻子がおり、職も離れていて思うにゆかない。富岡は心中しようとゆき子を伊香保温泉に連れ出すが、土地の女おせいと関係を結び、ずるずると東京に戻ってきてしまう。

 つかず離れずの関係を引きづったまま、妻もおせいも失った富岡は屋久島に新しい仕事を見つける。赴任する富岡にしがみつくように同行するゆき子だったが、道中病に倒れ、屋久島に着いた早々死を迎えるのだった。


 爽やかでで甘酸っぱい青春小説もいいけれど、この作品で描かれるのはそういった時期を過ぎてしまった男女の腐れ縁。次々と女に目移りしながら過去の関係を振り切ることができない男と、一途に男を思いながら一方で男の不実に気づき素直になれない女。

 仏印での美しい思い出を語りながら、お互いの肚を探り合う二人の姿は醜悪でいやらしい。二人の姿にはひどく現実的な手触りや生臭さがあって、身につまされる思いがし、顔を背けることができない。

 男女間の関係を描くと同時に、戦後すぐの退廃とした空気がよくすくい取られているのではないか。どこに向かっているのかわからない、どうやって生活を建て直すかの方策もない。「浮雲」にたとえられた人間の哀しさがじんわりと胸にしみる感じがする。

 大日向教という新興宗教を登場させ、その信者の老女に語らせた「教主を信じるのではなく目に見えない大日向さまを信じる」という素朴な信仰も何かにすがりつかねば生きていけない人間の哀しさとたくましさが共存しているようで、ここにも時代的な空気を感じる。

 物語は最後、仏印を思わせる人里離れた森に覆われた屋久島に新たな仕事を見つけ、二人で屋久島にロマンティックな展開を見せる。しかしそこでも富岡は他の女に目移りし、ゆき子は辛らつな言葉を吐く。それでも遠くまで二人で来た腐れ縁をしみじみと思っている。そんな機微が不思議にも悪くなく思えるのだった。


 突如死を迎えたゆき子のように、林芙美子も精力的に活動する最中に死を迎えたそう。それは残念ではあるが、版権は切れているらしく、青空文庫にもいくつかの作品が収録されている。今まであまり注目してこなかった作家ではあるけれど、他の作品も読んでみたいなと思う。

 またこの『浮雲』は成瀬巳喜男監督によって映像化された傑作があるということなので、そちらも気になっている。
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