深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール 他五篇』
ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
(1994/03)
野村 修、ヴァルター ベンヤミン 他

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 芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。しかも芸術作品は、この一回限りの存在によってこそその歴史をもつのであって、そしてそれが存続するあいだ、歴史の支配を受けつづける。作品が時間の経過のなかでその物質的構造にこうむる変化にしても、また、場合によって起こりうる所有関係の交替にしても、その歴史の一部分である。

ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」


 岩波文庫版の本書には、「複製技術時代の芸術」が収められていて、色々なところで言及されているので、それ目当てで手にとってみた。

 その他に本書は、「フランツ・カフカ」「カフカについての手紙」「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」「ブレヒトの詩への注釈」「歴史の概念について」の5篇が収められている。

 ヴァルター・ベンヤミンはドイツ生れの文筆家。ユダヤ系の人だったようで、ナチスの手から逃れる最中に服毒自殺を遂げたという。

 ここに収められている論考のほとんども反ファシズムの決然とした態度に貫かれていて、著者の人柄と生涯をしのばせ、心を打つものがあります。
 引用部にあるように、「複製技術時代の芸術」では、マルクスにならい生産技術の進展が芸術作品に及ぼす影響を考察している。芸術作品の一回性が持つ権威をアウラと呼んだのは有名。

 そういったアウラが複製される芸術からは脱落してしまうと彼は指摘する。それは厳粛な礼拝的価値、模倣の仮象的な側面から、展示的価値、遊戯性の側面への移行だという。

 今は複製が席巻しているように思われ、ベンヤミンが抱いていた危機感を実感しにくいかもしれない。芸術作品の歴史的な側面も含めて芸術が受容されてきたという観点はそれだけで興味深い。

 ただアウラの凋落の是非というよりも、そういった芸術の受容、知覚の変化が人々にどのような機能を与えるかということにベンヤミンは関心があるようだ。

 例えば映画などのメディアは大人数に同時に享受されるという特徴を持ち、スローモーションなどを用いることで人間の視覚では捉えることができない無意識的な知覚に働きかけることができる。また大衆の受容の仕方も享楽的になり、日常に浸透していっている。

 ここで大衆は画面の中に現れる俳優は、機械システムの中で人間性を発揮しているように見え、社会システムの中で疎外されている大衆は、そこに自分自身を見出し喝采する。そして自らも表現をしたいと思う。

 だが映画はモンタージュであり、それを製作する人間は自分が必要とする映像を何度も撮り直すことが可能である。

 そこを支配階級に突かれたならば、ファシズム的熱狂をもって、戦争という自己表現に突き進んで行きかねないと警鐘を鳴らしている。

 このように芸術が政治と大衆の関係に及ぼす影響の面でも今日的な問題をはらんでいるように思え、とてもおもしろかった。


 著者はマルクスにかなり影響を受けているようで、絶筆となった「歴史の概念について」などは難解で、唯物論的歴史論やメシア思想の知識がない私には厳しかった。

 しかし、その他の論考でもそうだけれど、著者の目は常に大衆を見つめているような気がして、共感できる部分が多かった。他の著作も読んでみたくなった。

 ところで本書は「ベンヤミンの仕事2」という副題になっているせいか、解説が非常にあっさりしているので、同じ岩波文庫の『暴力批判論』から読んだほうがよかったのかもしれない。
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