深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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エドワード・S・リード『経験のための戦い』
経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ
エドワード・S. リード,菅野 盾樹

新曜社
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 われわれの行動は環境を変化させるが、しかし行動はまたわれわれも変化させる。経験は行動と手をたずさえて進むのであり、両者を改善し拡張することができる。人は実際に自らの失敗から学ぶことができる。哲学者や科学者は、他の人と同じように、「自らの経験に広がっている善」を受け入れざるをえない。「(哲学には)モーセあるいはパウロにゆだねられたような啓示の権威がない。しかし哲学はこれらの共通で自然な善を知的に批判する権威をもっている」。デューイは次のように付け加えるべきだったろう――その権威を哲学が引き受けるかぎりでのみ、哲学者が自らを理解し改善するべく集団の人間的努力に奉仕し間違う危険を犯すかぎりでのみ、哲学は知的批判の権威をもつ、と。不確実性への怖れが現代世界に蔓延している。人間性に奉仕するべく知的批判を用いようとする多くの哲学者の試みを無力化するのは、なによりもこの不確実性への怖れである。

エドワード・S・リード『経験のための戦い』


 年の初めに、エドワード・リードの『魂から心へ』を読んだ際に、この『経験のための戦い』が訳されていることを知った。ページ数からみれば、ものすごい大著というわけでもなさそうなので、近いうちに読もうと思っていた。

 リードは哲学者でもある生態心理学者。42歳で夭折した彼には、三部作といわれる主著がある。『アフォーダンスの心理学』は理論的な面を体系的にまとめたものであり、『魂から心へ』では心理学誕生前夜の歴史をたどり心理学がその過程で失ってしまったものを再発見しようとする試みだった。そして『経験のための戦い』では、生態学的なアプローチを用いて現代社会の抱える問題を抉り出そうとする。

 原題は「経験の必要性」というものだが終章の題をとって「経験のための戦い」としたらしく、インパクトのあるものになっている。
 この本の中でリードは、私たちが直接生活の中で経験する一次的経験と、他人からの報告といった、メディアを介した間接的な経験とを区別する。そして、情報化の進展その他によって、直接的な経験が間接的な経験にどんどん侵食されている状況に警告をならす。

 このことについてリードは17世紀の西洋哲学にまでさかのぼって議論を始める。彼によれば、西洋哲学は日常経験を蔑視する傾向にあった。

 ギリシア哲学では、イデア界が構想され現実はその影と見なされた。また17世紀の自然科学の台頭は、数学・物理的に操作できるものをその対象とするようになり、現実世界の反映である心の状態・観念ばかりを扱うようになった。そして『魂から心へ』で描かれたような要素還元的な感覚実験の登場は無意識的な心的過程というものを打ち出し、日常的な経験を研究対象としてはつまらないものとして追い込む結果となった。

 こういった考えの背景には、知覚の因果論、つまり私たちは感覚入力そのものではなく心的過程のフィルターを通して経験しているという理論がある。この代わりとなる理論を示さねば、どんな反論も有効打にはなりえない。それがギブソンの生態学的アプローチだという。

 デカルトに端を発する外界からの刺激を受容する身体とその入力を解釈する心という二元論にはもうひとつ問題があった。それは日常的な知覚をどこまでも疑っていったこと。そうして理性の光に照らされた思考のみを真とした。知識は確実なものに、日常的な経験を不確かなものと軽視する流れをつくった。

 社会的な側面も同様な道筋をたどる。リードが心の機械加工と呼ぶように、部品をくみ上げるように、アルゴリズムを組むように、作業工程を機械的に組織することで企業は不確実性を減らそうとした。労働者のイレギュラーな行動、主観的な判断を減らし、予測可能で制御可能になるよう管理を強めていった。

 ラインでの単純作業、作業のマニュアル化、作業の細分化により全体の中での自身の仕事の意味が見えにくくなっていること、工場のオートメーション化、また情報化の進展により、キーボードを操作することに終始すること。そのような職場環境が増えている。バランスをとるはずの日常生活でも、テレビから垂れ流される情報にどっぷり使っている。

 アフォーダンス、つまり環境の中に意味が存在していると聞くと、私たちは環境に受動的に行動させられているように思いがちである。しかしそうではない。私たちが環境の中で動き回ることによって、世界の「見え」が変化し、その情報が次の行動の指針になる。個体は環境に働きかけることで、そこから生きるのに必要な情報を探し出す能力を持っている。

 そのような考え方からすれば、他人から与えられた行動、他人が切り取った情報ばかりにつかっている現代人は自らの経験から学ぶ能力さえ衰えていくのではないかという著者の強い危機感ももっともだろう。

 環境情報の流動的配列のなかに、われわれはいま行っていることに関する情報を見いだすが、しかしまた起こるかもしれないことに関する情報、切迫した事態に関する情報をも見いだす。観察者はもし進路を変えないと何に衝突するかを特定するために、拡大の焦点を使うことができる(拡大の焦点からは、観察者が衝突するまでの時間を知ることもできる)。変化する遮蔽パターンは、観察者にもし彼女がそのまま進んでゆけばどんな対象が視野に入るかを教える。こうして、われわれの経験は可能性と潜在性に満ちているのだが、ここで問題なのは、内的な観察者が仮言判断を行う可能性や潜在性ではなく、活動する観察者が差し迫った変化に気づく能力や潜在性である。学習とはこの種の経験の成長である。さらに人間には、切迫したものを現実化するために自らの行動を制御するやり方を意識する能力がある。よちよち歩きの子供は、ボールが蹴る動作の対象であることに気づいても、それを蹴ろうとするといつも転倒する。この状態は、蹴る動作を始めたとき身体バランスに変化が生じるのに彼女が気づき、この変化を予期し制御できるようになるまで続く。エドワード・S・リード『経験のための戦い』


 このように直接的な経験は現下の差し迫った行動に使われるだけではない。そこから次に何が起こるのかという情報も含んでいる。そういった情報を読み取る能力も磨かれないままにしまう。ひいては希望を達成する力、すなわち目標までの道すじを具体化する力も磨かれずにしまう。

 私たちは同じものを見、聞き、同じことを考えているかということはついにわからない。しかし同じ環境の中で建設的な方へ向かって共に行動することはできるはずだ。そしてその能力は経験によって洗練していくことができる。そういった機会をもう一度取り戻す必要があるのではないだろうか。


 300ページ足らずの短い著作ながら、なかなか歯ごたえがある。割注が多い訳文は親切だとは思うものの、読みやすいともいえず骨が折れた。予期や希望の点についても、もっと詳しく説明して欲しかったなと思う。

 とはいえ何となくまずいだろうなと感じている現代的な問題に対して、生態心理学の観点からアプローチし、デューイらプログマティストの哲学的に理論的基盤を与え、社会を漸進的にでも変えていこうとする姿には心を打たれる。

 理論的な面は『アフォーダンスの心理学』
を読んでからのほうがわかりやすいかもしれないけれども、単独で読んでも刺激的な一冊だと思う。
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