深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと 下巻』
根をもつこと(下) (岩波文庫)根をもつこと(下) (岩波文庫)
シモーヌ・ヴェイユ,冨原 眞弓

岩波書店
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 現代人の心のなかで偉大さの構想と意味のまったき変革を完遂させずとも、ヒトラーを偉大さから追放できると信じたりするのは、国家的な憎悪に眼をくらまされてりうがゆえの幻想である。しかし、この変革に貢献するには、個々の人間がみずからのなかで変革を完遂させていなければならない。ひとりひとりの人間が、まさにいまこの瞬間から、偉大さの感覚の方向性を修正して、みずからの魂のなかでヒトラーの懲罰を始めることができる。これはなまなかな覚悟ではできない。大気圏の圧力とおなじく重く包み込んでくる社会的圧力が、こうした努力に抵抗するからである。最後までやってのけるには、精神的に社会の外側にわが身を追放せねばならない。だからこそプラトンは、善を識別する能力は神の直伝をうけて救霊を予定された魂のなかにしか存在しない、といったのだ。

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと 下巻』


 上巻に続いて『根をもつこと』の下巻を読んでみる。この下巻には、第3部の「根づき」が収められている。

 フランスの本土回復を前に、深い傷を負ったフランス国民に霊感を吹き込み、フランス再建へ向けての行動を起こす原動力を与える方法が考察されていく。

 以下メモ。
 ドイツ軍からのフランス解放を目前に控え、ヴェイユはそこに深刻な危機とともに、再興のチャンスも見ていた。疲弊したフランス国民に霊感を吹き込み、復興への原動力を与えなければならない。

 そのためには、ヒトラーが用いたような暗示ではなく、国民の心の奥底に潜んでいる善なるものへ呼びかけ、行動を引き出す必要性を感じていた。高度に政治的な手法が必要性を感じていた。

 ヴェイユはその障碍として次の4つを挙げる。「偉大さについての誤った構想」「正義の感覚の堕落」「金銭の偶像崇拝」「宗教的霊感の欠落」である。

 歴史は勝者の記録で彩られている。敗者が記録されることは稀だ。私たちが偉大とするものがそのようなものであれば、支配者たろうとしたヒトラーとどこが違うのか。自ら信じた信じた善に邁進したヒトラーのほうが何もしないものより優れていたとさえいう。

 善なるものこそ真に讃えられるべき、また現下最も必要とされるものであるのに、世の中で賞賛されるのは才覚であり、それは必ずしも善とは結びつかない。往々にして美徳は凡庸さと結びつく。

 また近代科学はキリスト教的世界観と対立し、その力を奪ってきた。しかし近代科学は善悪の構想とは無縁の、真理を探求するものではなくなり、その代替物としてはなりえない。

 科学の原動力になっているのは、知的なゲーム、その技術がもたらす威信、、単なる義務感といった不純なものが混じっているからだ。そして、分化した専門のなかで党派的な動きに大きく左右される。

 再び宗教と科学を和解させなければならない。その調和が崩れたのは、奇跡や超常現象をもって神の存在の有無を議論するからである。ローマ的な神が個別的・人格的なかたちで介入するという考えは科学の構想と相容れない。

 そうではなく神の個別の意志を切り取ってもあまり意味がない。その総体が宇宙そのものであり、この世界に秩序を与えるものなのだと。そして力を支配し、限定し制止するもの、力を従える原理、愛なのだと。


 こちらも腰を据えて取り組んだものの、なかなかうまく消化できていない。哲学書とはいえ、特別難しい用語が出てくることもなく、抽象的な議論も下巻の終わりのほうをのぞけば多くないと思う。それでも一筋縄ではいかない著作だった。

 それはたぶん時代的な背景を共有していないからかもしれない。戦争の真っ只中、戦場に近いところに身をおき、戦争で荒廃した祖国の再建という大事業に、疲弊した国民を向かわせることができるのか。その切迫した感じを共有するのは難しい。

 またヴェイユはフランス国民を襲った精神的危機の原因をフランスの歴史を何百年とたどることで迫ろうとする。しかしなじみのあまりないフランスの歴史が、フランス国民にとってどういう意味があったのかということもなかなか理解しづらい面があると思う。

 しかしこのストイックというのか、あまりにも清潔で情熱をたたえた文体には強くひきつけられる。苦難を自ら引き受けていくようなその姿勢は、何となく聖なるものを思わせるところがある。

 集団を守るために犠牲が求められることもあると、集団への義務を強調されたりすると、説教じみて感じてしまったり、全体主義的な傾向への拒否反応が出てきてしまうのだが、この人はどこまでもそのことを信じていて、自らためらうことなくその犠牲となるだろうと思わせる迫力がある。その凄みは軽々しく口にすることをためらわせる。

 そうして脊髄反射的に拒否せずに読んでいくと、彼女自身も狂信的な愛国心に対しては批判的であることがわかる。ヴェイユは確かに国を必要とした。ドイツ軍に国が占領されるという事態を前にして。それは論じるまでもなく自明のことだった。それは人びとの魂の糧、魂を養う土壌であるがゆえに。

 しかし愛する対象に与えられる以上のものを与えれば必ず反動が生じてしまう。偉大なる祖国というようなスローガンをかけげるやり方は失敗した。とすれば、愛国心を修正するしかないだろう。

 それは偉大さに熱狂することではなく、私たちと同じく有限で、脆弱で不幸にされているために、そこに同情するから、憐れみ保護すべき存在と感ずるがゆえに愛するのだとする。


 平時にいる私にとってはなかなか実感を持てないが、ひとたび有事となれば否応なく動員されることになるだろう。でなければ、国を捨てるしかない。そういった際に、偉大なる我らと酔うよりも、危機に面した国を憐れむゆえに行動するほうがずっと健全な気がする。

 必ずしも全てに納得するわけではないが、現実の問題を透徹し、具体的な方策を次々に繰り出していくヴェイユの精力的な活動には敬服せざるを得ない。

 そして自分自身に対しても厳しい。例えば次のような一節は、自制的で、善を行おうとする強い意志を感じる。そこに激しく惹きつけられる。

 ある形態の悪を嫌悪するがゆえに戦いにふみきるという戦慄すべき決断をし、戦争に含意されるいっさいの残虐さを甘受する覚悟をしたとしても、自分自身のなかの同様の悪にたいしてひとしく容赦なき戦いをくりひろげずにいるのなら、われわれに弁明の余地はない。コルネイユ流の偉大さが英雄主義の威光でわれわれを誘惑しうるなら、ドイツもまたわれわれを誘惑しうる。ドイツの兵士はたしかに「英雄」だからだ。祖国の概念をめぐる思考と感情の現下の混乱状態にあって、アフリカで斃れたフランス兵の犠牲が、ロシアで斃れたドイツ兵の犠牲よりも純粋な霊感に支えられていたという保証はどこにあるのか。いまのところ保証はない。そこからいかに戦慄すべき責任が生じるかを感知しないようなら、世界を股にかけた犯罪の跳梁にあって、われわれ自身も罪がないとはいえない。
 真理への愛ゆえにすべてを無視すべき一点があるとすれば、この一点につきる。われわれはみな祖国の名において集められている。もし祖国への思いのなかに虚偽がわずかでも混入するようなら、われわれは何者にもなれないし、いかなる軽蔑にもあたいするだろう。

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと 上巻』


 だがこの点でヒトラーはわれわれよりすぐれている。なにかを善だと認めたのなら、これを捕らえようと欲すべきだ。そうせずにいるのはたんなる怯懦である。

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと 下巻』



 下巻の科学に関する議論は消化不良でもあり、働くことの霊性に関する補遺も本文との関連もよくわからなかった。その点で少し未完成な感じがするところはある。

 後者に関しては、もうひとつの主著である『自由と社会的抑圧』に詳しいようなので、余裕があるときに挑戦してみたいと思う。
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