深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと 上巻』
根をもつこと(上) (岩波文庫)根をもつこと(上) (岩波文庫)
シモーヌ・ヴェイユ,冨原 眞弓

岩波書店
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 更新が滞っておりだめだなと思いつつ、時間ばかりすぎてしまいます。ここ最近はシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』を読んでおりました。

 新刊本のコーナーでこの本を見かけたときに何て魅力的なタイトルだろうと思って、手に取ると前から関心のあったシモーヌ・ヴェイユの著作だということで、以来ずっと読みたいなと思っていた。

 私は何となく根無し草のような自分を感じてきた。地面に根を下ろす重い生き方を選ぶのは恐ろしい。流されるまま飛んでいけるほうが何となく気楽に思うことができる。といっても、生まれてこの方、ひとところにとどまっているの私なのだけれど。

 そういうわけで「根をもつ」という言葉からイメージされるような生き方に憧れに近いものがあったのかもしれません。

 シモーヌ・ヴェイユはフランスの哲学者。この『根をもつこと』はドイツ軍が占領したフランスへの抵抗運動に参加するため、アメリカに逃れた後、ロンドンに舞い戻って活動を続けていた際に、書かれたものだという。この活動の最中、ヴェイユは食を拒み、1943年34歳でその生涯を閉じたという。

 この『根をもつこと』はそんな憑かれたような執筆の時期、フランスの再建を構想するように作成されたものだという。全体は3部からなり、この上巻には第1部「魂の要求」、第2部の「根こぎ」が収められている。

 以下メモ。


 ヴェイユは人間は本質的に義務を持っており、権利はそれに付随すると語り出す。自分以外の人が自分に対して義務を持つなら、それを権利というのだと。

 この義務は例えば、飢えている人を救う手段を持っているなら救うべきだというものだ。ここからの類推で、人間の義務とは、人間が持つ本質的な欲求を可能限り満たしていくことと考えることができる。

 われわれは麦畑に敬意を払わねばならない。麦畑だからではなく人間にとっての糧だからである。
 同様に、祖国、家族、その他いかなるものであっても、集団には経緯を払わねばならない。集団だからではなく一定数の魂を養う糧だからである。

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと 上巻』



 このように集団は人間にとって重要なものであるため、集団を守るために個人に犠牲が求められることもある。ところが集団が糧となるのではなく、個人の魂を貪るものへと変化することもあり、その場合は治療あるいは根絶が必要になる。

 そうした判断の基準となる、人間の魂の欲求をリストアップし、人間にとって糧となる集団とそうでないものとを区別する必要がある。その試みが第1部の「魂の欲求」となる。


 第2部「根こぎ」では、魂の最も切実な欲求である「根づき」がヨーロッパから失われ根こぎにされていることが考察されていく。「根づき」の欲求とはヴェイユ自身が定義しにくいとしているが、その暗喩がもつ力は豊かで、示唆的に思う。

 それは人びとがその土地を誇り愛し、その土地で暮らしていくことを選びとり、世代から世代へと再生産していくプロセスに参加するというようなイメージを受ける。ただ与えられるだけではない。自ら根を伸ばしていくような積極的で活き活きとした、自然で本性的な活動に思われる。

根をもつこと、それはおそらく人間の魂のもっとも重要な欲求であると同時に、もっとも無視されている欲求である。また、もっとも定義のむずかしい欲求のひとつでもある。人間は、過去のある種の予感をいだいている集団に、自然なかたちで参与することで、根をもつ。自然なかたちでの参与とは、場所、出生、職業、人間関係を介しておのずと実現される参与を意味する。人間は複数の根をもつことを欲する。自分が自然なかたちでかかわる複数の環境を介して、道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものをうけとりたいと欲するのである。

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと 上巻』



 こうした根が奪われる要因として、他民族による侵略、そして金銭が振るう猛威があげられている。

 賃金労働者は頭数として判断され、全体像の把握できない、非人間的な作業に従事するなかで気力を奪われる、絶えず失業の恐怖にさらされている。長時間の労働で疲れ果てた彼らは、文化的なものを享受する余裕も自らの能力を伸ばしていく余裕もなくなっている。

 一方、農民は全ての「中心」である都市から遠く離れ、そこへ参与できない疎外感を強めている。こうして都市労働者と農民は互いに羨望の思いを募らせ、不信感を抱いている。

 さらに別の視点での「根こぎ」が考察される。かつて人びとは地域的な小集団に参加していた。しかし、そういった集団は次第に消え失せた。宗教でさえも、個人の趣向とされ力を失った。こうして最後に残ったのが、国民国家のみだという。

国 家の成立の過程で、根づきの対象を失った民衆は、それらを崩壊させたぽっと出の 国家へ真空地帯に吸い込まれるように愛国心を向けざるを得ず、排外的で尖鋭化した愛国心の唯一の対象となるにいたった。

 本来は嫌悪の対象である国家が唯一の忠誠の対象となった。そして第一次世界大戦時には、国民に恐るべき犠牲を強いることができた。

 絶対的な地位を得た国家は、誤るはずがないという狂信に落ち込んでいく。負けるはずがない、1789年以来の普遍的な価値の伝道をするという使命感に浸る。ところが現実は、悪を行う征服者、抑圧者でしかない。

 第一次世界大戦で、祖国へ献身し尽くしたフランスはその揺り戻しに襲われた。国民は疲弊していた。国家は分配物を施してくれる存在にしか映らなくなった。一旦、ドイツ軍に蹂躙された祖国は連合軍によって解放される。しかしそんなフランスを、どのようにしたら建て直すことができるのか。

 ヴェイユはフランスへのの矛盾した愛国心を鍛え直す必要があるという。しかし愛国心には、有事の際、限界ある祖国に無限の奉仕をする義務を要求されるという矛盾が存在する。そして、その矛盾は上のフランスのように揺り戻しがある。

 なぜ人は絶対的な義務を負うのか。それは国が根づきの場所だからだ。人びとの魂を育む土壌となる生の環境だからだ。それだけで十分であるという。

 しかし有事の際には、国としてまとまるとしても、平時は数多の生の環境が存在することを認め、それを有する人びとがいることを理解し尊重する必要がある。そして「偉大なる祖国」というような美辞麗句によって鼓舞される愛国心でなく、祖国への憐れみをその原動力とする必要があるという。

 祖国もまた不幸ではかない存在だけども、それだからこそ愛するというものに転化できれば、その言葉から想像される以上の強い力を持ち得るのだという。

 逆に、祖国がうるわしくも貴重なものとして、ただし部分的には不完全できわめて脆弱で不幸にさらされており、それゆえ悲しんで保護すべきものとして民衆に提示されるなら、彼らは当然ながら他の社会階層の人びと以上に祖国を身近に感じるだろう。なぜなら民衆はあらゆる認識のなかでもっとも重要なもの、すなわち不幸の現実についての認識を占有しているからだ。だからこそ民衆はきわめて痛切に感じている。不幸から匿われるにあたいする事物がいかに慈しんで保護すべきであるかを。

シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと 上巻』




 わかったようなわからないような感じですが、ここで上巻は終わり、下巻の第3部へと続きます。
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