深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,Michael J. Sandel,鬼澤 忍

早川書房
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 分配の正義のよりどころを道徳的功績に求めないという考え方は、道徳的には魅力的だが、人びとを不安にさせる。この考えが魅力的なのは、それが実力主義の社会につきものの独善的な前提、つまり成功は美徳がもたらす栄誉であり、金持ちが金持ちなのは貧乏人よりもそれに値するからだという前提をくつがえすからだ。ロールズが指摘しているように、「自分が才能に恵まれ、社会で有利なスタートを切ることのできる場所に生まれたのは、自分にその価値があるかだといえる人はいない」。われわれがたまたま、自分の強みを高く評価してくれる社会に生きているのも、われわれの手柄ではない。それを決めるのは運であって、個人の徳ではない。
 いっぽう、正義は道徳的功績とは関係ないとする考えが不安をあおる理由は、それほど簡単には説明できない。職やチャンスを得るのは、それに値する人間だけだという信念は根深い。(中略)
 この根強い思い込み――成功は徳への見返りであるという信念は、単なる思い違いであり、われわれを呪縛している神話なのかもしれない。運の道徳的恣意性に関するロールズの指摘は、この信念に大きな疑問を投げかけている。それでもロールズとドゥウォーキンが示唆しているように、正義に関する議論を功績をめぐる論争から切り離すことは、政治的にも哲学的にも不可能なのかもしれない。その理由を説明してみよう。
 第一に、正義は名誉とかかわっていることが多い。分配の正義をめぐる論争では、誰が何を得るかだけでなく、名誉や見返りにふさわしい資質は何かかが議論される。第二に、組織が自らの使命を定義してはじめて、評価すべき能力が決まるという考え方は混乱を招く。正義をめぐる論争にはよく、学校、大学、職能団体、専門家団体、公的機関といった組織が登場するが、彼らはみずからの使命を好き勝手に決めていいわけではない。少なくともある程度は、その組織が奨励している善に制約される。ロースクールや軍隊、オーケストラが持つべき使命にはつねに議論の余地があるが、何でもよいわけではない。組織によって、ふさわしい善がある。それを無視して役割を割り当てることは、ある種の堕落につながるだろう。

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』


 昨年から何かと話題になっている本で、哲学の本がこんなに売れているのは何でだろうと思っていた。どうもNHKで放送されたテレビの公開講義から火がついて話題になったらしい。

 そんな事情には全く疎く何かよく見かけるなという程度だったのだけれど、副題になっている「いまを生き延びるための哲学」という言葉に惹かれて、読んでみたいなと思うようになった。

 原題はそのものずばりの「正義」で、何が正しいかということを問題にしている。あまり深く意識したことはなかったけれども、「法律はいかにあるべきか、社会はいかに組み立てられるべきか」という問題と密接に関わっている。というわけで、哲学といってもとても身近に感じられる話題が豊富に含まれている。
 私たちは世の中で生まれ育つ中で自然とそれなりの倫理観を身につけてているだろう。何が正しいことかということを深く意識することもなく過ごしている。しかしある日突然、個人や社会は激しい道徳的なジレンマに直面する。そういったとき、判断を下すのにどういう原則が必要なのか。

 例えば、災害時に欠乏する物資を通常時の何倍もする値段で売っていいのか、なぜ戦争で心の病を抱えた人間は戦場の負傷者と違い称えられることがないのか、税金で救済された企業の重役が高額な報酬を手にするのは当然のことなのか。こういった物議をかもした問題を取り上げ、著者はひとつの思考実験を展開する。

 暴走する電車の目前に5人の作業員がいたとする。その直前に待避路があるのがわかり、そちらには1人の作業員しかいない。あなたが運転手だとして待避路へハンドルを切るべきか。
 同様の状況で、今度は運転手ではなくあなたが線路脇で電車の暴走に気づいた人間だった場合、隣に立つ太った男を線路へ突き飛ばせば目前の5人を救うことができるのがわかったとする。あなたは5人を救うために男を突き飛ばすだろうか。

 同じ1人の犠牲で5人を救うことができる状況にもかかわらず、多くの人は前者では1人を犠牲にするのは仕方ないと感じても、後者の1人の犠牲には抵抗を感じるはずだという。

 ベンサムに始まる功利主義的な考えでは効用を最大化することこそ正しいのだと考える。あらゆる利害を足し合わせてその最大化ができる選択をする。上の設問ではどちらも1人に対して5人を救うことができるのだから迷うことはないと考えるだろう。

 効用の最大化のためといって個人を犠牲にしたりするのには抵抗を感じるだろうし、そう簡単に利害の足し算ができるのかという問題もある。しかし、この考えはジョン・スチュアート・ミルによって公共の福祉に反しない限り自由に幸福を追求する権利があるとして、自由を擁護する主義となって今に至っている。

 こういった長期的な効用を最大化させることを正しいとする立場に対し、自由を最大限に尊重することが正しいとする市場原理主義(リバタリアニズム)の立場がある。国家による強制的な再分配は不正であり、個人の能力によって得たものはその個人が受け取るべきで、その権利が侵害されてはならないとする。

 しかし本人の意志だからといって臓器売買や代理母出産が自由に市場で取引されることにはまだまだ根強い抵抗がある。そこには選択を行うとき人はどこまで自由かという問題と市場では評価できない美徳や価値は存在するかという問題に直面する。ここでカントとロールズが登場する。

 上に引用したように何かの利益のために行われる善行を道徳的とはみなさなかった。そして市場での取引とも異なる自由を擁護した。カントは人を理性的な存在でありうるとみなし、純粋に無条件に正しいとされるルールを選び取り、それが正しいからという理由でしたがう時に人は自由であるとする。

 そのためカントは効用を理由に正しさを決める功利主義とは相容れなかった。そして社会契約による政府を支持した。しかしその社会契約はどのような内容かということには踏み込まなかった。それに答えようとしたのがロールズということになる。

 人びとが持って生まれた特性をわからないように「無知のヴェール」をかけられた状態で結ばれた合意こそが公正だとする。そういった状態では人びとは経済的にハンデを負っているかどうかはわからない。そのため最も不遇な人びとの利益になるような合意を結ぶという「格差原理」が選択される。

 ここから生じることは人生で成功すること、名誉や富は偶然によって得られた本人の出発点による、ある程度運で決まってしまっているということだ。

 この点で、現実に興味深いのはアファーマティブアクションをめぐる議論で、あるマイノリティを優先したために大学入試で締め出しをくらった選考者は不平を抱くだろう。しかし、入試での成功が個人の能力や徳のみで決まるものではなく、大学の使命に照らして妥当であれば問題がないことになる。

 しかし大学側が独自に基準を設定するからといってその基準が人の権利を侵害するものだったり、品位にもとるものだったら許すことは難しくなる。ここで正義を名誉や徳目から切り離そうとする試みは難しくなる。

 正義は名誉や徳と不可分であり、その目的を最大限に生かすような分配こそ正しいとしたのがアリストテレスだという。そして政治の目的とは美徳を涵養することであり、それを実行することができる優れた指導者に政治的権威と名誉を与えようとする。


 カントやロールズは価値は個人が選び取るものとし、その結果にのみ責任を負うとする「道徳的個人主義」をもたらす。しかし著者はそれでは不十分だとする。過去に国家が犯した歴史的行いに対する責任、家族や友人に対する忠誠心、愛国心といったものがそこからは漏れ出てしまう。

 私たちはある状況・共同体の中で生まれる。そこに帰属するものとして、そのコミュニティが負う責任にも連帯するというのだと著者はいい、アリストテレス的な共同体の善を模索していく立場を取る。



 扱っている内容は難しい問題ばかりだけれども、ものすごく読みやすくておもしろい。現実の社会で議論を巻き起こした道徳的な事例を取り上げ読者を考えさせ、その判断の元となる原則を考えた思想家たちへとさかのぼっていく展開が自然ですんなりと胸に入っていく。

 特に、「暴走する電車」の設問が利いていて、複雑な現象を単純な設問に置き換え思考実験を展開するのが哲学のひとつの方法論なのだということがわかる。そのことが後々登場するカントやロールズの耳慣れない哲学用語や思考方法も何となくそういうことなんだろうかという気がして、拒否反応を起こすことなく読み進むことができ、クリアに見通せる。

 そして思想家たちの抽象的な議論と現実に起こっている具体的な事件が隣り合わせに配置されているのも特徴だろう。思想と現実をこれだけ自由に行き来する本はなかなかないと思う。何となくわかったような気で終わってしまっていたところが、現実の問題に適用され、それを解きほぐしていく力を持つのを目の当たりにするのは非常におもしろい。


 何を善とするかという問題を抜きに正義を語ることはできない。そこを保留にしたまま正しさを論じるのは、現実の問題を前にしては力を持たないというのは、確かになるほどと思わされるものがある。生まれ落ちた場所・時間から自由にはなれない。状況に取り込まれた存在だというのも納得ができる。この日本でも、現に隣国との関係の中で戦争責任を問われることも多い。

 しかし納得はできても連帯や愛国心、忠誠という言葉を聞くとついつい逃げ出したくなってしまう。このあたりはもう少し説得力が足りない気がする。価値観の対立から逃げることなく、個人を抑圧することもなく、共に生きていく道を探せるかということを考えていく必要があるのだと思う。
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