深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』
ペドロ・パラモ (岩波文庫)ペドロ・パラモ (岩波文庫)
(1992/10)
フアン ルルフォ

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 どうしてあの視線は、諦めに対して挑みかかろうとするのだろう。自分のひと言やふた言、いや百言を費やしてでも、もし魂が救われるというのなら、いともたやすいことではないか。どうして許してやらないのだ。天国や地獄について、自分は何を知っていると言うのか。しかし、この辺鄙な田舎町に埋もれている自分にも、どんな人間が天国に受け入れられたのかはちゃんとわかっていた。そういう人たちの名簿があった。そして、カトリックの聖徒の名前を、その日の守護聖者から列挙しはじめた。「殉教者にして処女なる聖女ヌニロア、アネルシオ司教、寡婦なる聖女サロメ、処女アロディアまたはエロディア、それにヌリーナ、処女コルドゥラとドナート」さらに数えあげていった。うつらうつらしだしたところで、はっと起きあがった。「なんてことだ、山羊を数えるみたいに聖人たちを数えてしまったぞ」
 外に出て、空を仰いだ。流れ星が降っていた。静かな空を見たかったのでがっかりした。雄鶏が鳴いた。地上を包みこむ夜の帳を感じた。この地上、そう、「この涙の谷」だ。

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』


 作者は20世紀メキシコの人。生涯にこの「ペドロ・パラモ」と「燃える平原」という短編集の2作品しかなかったらしい。本作は1955年に発表されたもので、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」と並び称されるラテン文学の傑作といわれる。

 内容は母親の遺言をもとにフアン・プレシアドという男がその父ペドロ・パラモを探しにコマラという町にやってくるというもの。彼の母親はペドロ・パラモに出世の道具として利用され、ペドロが呼び戻すことを期待しながら叔母の許へ去ったのだ。

 ところがコマラの町はすでに滅びていて登場する人物たちはペドロ・パラモやその息子ミゲル・パラモの死などを語っては消えていく。そしてフアン・プレシアドも死んでしまい、大地主として成り上がり何人もの女性と関係を持ったペドロ・パラモの魁偉な人物像に焦点が移っていく。そんな彼も最後には、メキシコ革命や最愛の人スサナの死といった出来事に直面し、息子アプンディオによって殺され没落していく。
 私はラテン・アメリカ文学はマルケスやボルヘスを数冊読んだ程度であまりいい読者ではないのだけれど、彼らが語る物語の文体はとても魅力的だと思う。吹きすさぶ風のような鋭い文章にいつも翻弄されてしまう。

 序盤はかなり視点や時間の移動が激しくて、物語をつかむのに苦労した。しかし生者と死者が語り合い、過去と未来が共存するような独特の空間は霧に包まれたような奇妙な感じですさまじく、ぐいぐいと物語の中に引き込まれてしまう。こういうのをマジック・リアリズムというのかな。

 フアン・プレシアドの死が明らかになったあたりから、ペドロ・パラモという人物の核心が明らかになる。そこは荒んだ男たちのドライな世界で、破滅に向かって一気に突き進んでいく。今まで周辺から語られ、また決して口数の多くないペドロの挙動や言葉の端々に、没落していく人間の悲哀があって、言い様のない哀しみを与えてくる。


 個人的にはレンテリオ神父という人物が印象的で、聖職者にありながら現実の前に全く無力で、その無力さに苦悩する弱くてみじめで滑稽な人間。上の引用部も彼の独白にあたる。その背後にあるのは、ルールなどない力がものをいう過酷な現実であって、日本では想像もできないような全く違う世界の生々しさに圧倒されるしかなかった。


 まだ「百年の孤独」も読めてないので近いうちに読んでみようかなという気になりました。それにしても「ささめき」という言葉の魅力!
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