深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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Flannery O'Conner『Mystery and Mannars』
Mystery and Manners: Occasional ProseMystery and Manners: Occasional Prose
Flannery O'Connor,Sally Fitzgerald,Robert Fitzgerald

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Where you find the terms of your apeal may have little or nothing to do with what is challenging in the life of the church at the morment. And this is particularly apparent to the Southern Catholic writer, whose imagination has been molded by life in a region which is traditionally Protestant. The two circumstances that have given character to may own writing have been those of being Southern and being Catholic. This is considered by many to be an unlikely combination but I have found it to be a most likely one. I think that the South provides the Catholic novelist with some benefits that he usually lacks, and lacks to a conspicuous degree. The Catholic novel can't be categorized by subject matter, but only by what is assumes about human and divine reality. it cannnot see man as determined; it cannnot see him as totally depraved. It will see him as incomplete in himself, as prone to evil but as redeemable when his efforts are assigned by grace. And it will see this grace as working through nature, but as entirely transcending it, so that a door is always open to possibilities and the unexpected in the human soul. Its center of meaning will be Christ; its center of destruction will be the devil. No matter how this view of life may be fleshed out, these assumptions form its skeleton.
(小説家が自己の奥底で伝えるべきものを見出しても、それはおそらくその時の教会生活に課題となっていることとはほとんど全く関係がない。このことは、伝統的にプロテスタントの地域である南部の生活に想像力をかたどられてきた南部のカトリックの作家にとっては特に明瞭に感じられる。私自身の作品を特徴づけてきたものは南部の人間であることとカトリックであることなのだ。これは多くの人には奇妙な組み合わせに映るかもしれないが、私にとってはこれ以上なくしっくりくる組み合わせだと感じている。南部人であることはカトリックの作家に往々として欠けているものを提供してくれる。それもカトリックの作家にはしばしば目立って欠けているものを。カトリックの小説というものはその主題によってカテゴリー分けできるものではない。それは人間的なリアリティと神的なリアリティに対する姿勢によってのみ行うことができる。そこでは人間を決定づけられた存在とは見ない。完全に邪悪な存在とも見ない。不完全で、悪に傾きがちな存在と見る。しかし同時に彼の努力が恩寵によって支えを受けたとき救済されうる存在と見る。そしてこの恩寵は自然を通して働くが、それを完全に超越し、そのために可能性と人間の魂の不可知性へと扉が常に開かれている。その意味の中心はキリストである。破壊の中心には悪魔がいる。こういった生の見方がどのように肉づけされていようと、こういった姿勢がその骨格を形作っている。)
But you don't write fiction with assumptions. The things we see, hear smell, and touch affect us long before we believe anything at all, and the South impresses its image on us from the moment we are able to distinguish one sound from another. By the time we are able to use our imaginations for fiction, we find that our senses have responded irrevocably to a certarin reality. This discovery of being bound through the senses to a particular society and a particular history, to particular sounds and a particular idiom, is for the writer the beginning of a recognition that first puts his work into real human perspective for him. What the Southern Catholic writer is apt to find, when he descends within his imagination, is not catholic life but the life of this region in which he is both native and alien. He discovers that the imagination is not free, but bound.
(しかし物の見方によってフィクションを書くのではない。私たちは、何かを信じるずっと前から、見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったりするものに影響を受けている。南部は私たちがある音を他の音と区別ができるようになる瞬間から私たちにイメージを刻みつけている。私たちがイマジネーションを働かせてフィクションを作るようになるまでに、私たちの感覚は現実の状況に取り返しのつかない反応を行ってしまっている。感覚を通して特定の社会、特定の歴史、特定の音、特定の言葉に縛られているという発見は物書きにとってその作品にリアルな人間的視点を与える最初の認識になる。南部のカトリックの作家が自らのイマジネーションに降りていったときしばしば、カトリックの生活ではなく、固有の土地でありながら異質な存在でもある南部の生活を発見する。イマジネーションは自由ではなく縛られている。)

Flannery O'Conner『Mystery and Mannars』「In the Protestant South」より


『存在することの習慣』で少し触れたけれども、『Beyond Freedom and Dignity』を読んでから、少しずつこちらを読み進めていた。一冊読むのに一年かかってしまっている。やはり洋書はコストパフォマンスがいい。

 大江健三郎さんの『人生の習慣』という講演集からフラナリー・オコナーに関心を持ち、須山静夫さんの訳で短編集と『賢い血』を読んだ。そこでオコナーの言葉に衝撃を受け、オコナーの文章、この『秘儀と習俗』と『人生の習慣』を読んでみたいなと思ってきたというのは『存在することの習慣』で書いたとおり。

『存在することの習慣』は、抄訳ではあるがタイミングよく訳出されたことを知ることができたけれど、この『秘儀と習俗』の日本語訳はなかなか入手困難。Amazon では数千円の値がついていて1万を超えることもままある。それに比べて原書なら1500円足らず。やはり洋書はコストパフォマンスがいい。

 それはさておき。この『秘儀と習俗』は、オコナーの死後、編集者で友人のサリー・フィッツジェラルドらによってまとめられた評論・講演集。オコナーは似たようなテーマの場合でも、講演を行うたびに原稿を書き直していたという。そのため死後残された原稿は膨大なものだったという。

 そのまま公開するか、いっそ出版をあきらめてしまおうかとさんざん頭を悩ませたものの、最終的に冗長な部分を削っていく大胆な編集方針をとることで何とか出版にこぎつけたものだと、その編集の難しさ、産みの苦しみが冒頭に記されている。

『秘儀と習俗』全体は6つのパートに分割されている。

 パート1は「百鳥の王」というオコナーが自宅で飼っていた(!)という孔雀のことをつづった文章が収録されている。孔雀を飼っていたというのが、なかなか理解できずいきなりつまずいた。アメリカというとなんとなく近く感じてしまうけれど、特に南部は日本とは別世界で、想像もつかない場所なのではないかと気づかされる。

 孔雀はまさに王様と呼ばれるにふさわしい傍若無人といった感じのマイペースな生態らしい。トラックが走ってきても道を譲らず、足を失ってしまったりしたらしい。最初は戸惑ったものの、次々と増えていく奇妙な同居者たちの姿がコミカルに描かれていておもしろい。

 そして最後のパート6には「メアリ・アンの思い出」という文章が収録されている。これは修道院に保護され12歳で死んでいったメアリ・アンという少女の生涯をつづった修道女たちの自費出版の本に寄せた前書きとのこと。ナサニエル・ホーソーンとその娘の活動を紹介しながら救貧院の伝統を振り返っていて、ホーソーンの意外な側面を知りことができる。

 そして残りのパート2から5には、オコナーの文学の方法である「秘儀と習俗」を中心とした議論が収録されている。大学の創作科などで行った講演など一般的な小説の方法に関する議論から、南部そしてカトリックと文学について語る、より作者の内面へ深く降下していくものへ移っていく。

 だけれどこの「秘儀と習俗」については私の語学力の問題もあるけれど、直接触れられるところが少なく、実のところあまり理解できていない。一番わかりやすいかもしれない部分を上に試しで訳してみたけれど、間違っていたらごめんなさい。

 これについて大江健三郎さんは次のように語っている。

 ついでにとくに文学に関心の深い人のためにいっておけば、オコナーの根本思想のおなじく大切なものは、彼女の評論集のタイトルにもなっている「秘儀と習俗、Mystery and Manners」です。ミステリーはカトリックの信仰における秘儀ですが、マナーズの方は日本語に移しにくい。われわれが生きる、その具体的ないちいちの側面とでもいうことで、その現実生活の細部に、とくに具体的なものに、恩寵はじめ信仰にかかわる大切な奥深いあらわれ、つまり秘儀がひそんでいるという考え方です。オコナーはそのマナーズこそを小説に表現しようとしたのでした。

大江健三郎『人生の習慣』


 ここでも秘儀についてはあっさりである。だが実際のところ、マナーズについての言及のほうが多い感じはあるのだ。

 オコナーは小説の講義で小説家は虚構を作り上げるのであり、自らの言いたいことを表明するための手段ではないということを口を酸っぱくして語っていく。細かな描写の積み重ねがリアリティを産む。抽象的な議論を一席ぶつための手段ではない。そのためには小説は迂遠過ぎる。まず具体からはじめる必要があるのだと。

 小説を書きたがる人はえてしてこのことに気づかない。そして素人はさらに次のことも忘れている。私たちのホームグラウンドがその現実感を出すのに力を与えてくれるということを。深い考えもなく、標準語で物語をつむごうとする、舞台を知りもしない外国に設定してしまう。そうして失敗作に終わる。

 上に引用したように私たちの感覚は、よいか悪いかは別として生まれ落ちた環境から影響を受け陶冶されている。想像力は完全に自由ではありえない。縛られている。だけれどそれが逆に武器になるのだろう。

 そうやって自らになじんだ世界、日常を通して物語をつむいでいくことで、リアリティが生まれる。必ずしも現実的である必要はない。それがどんなに悲惨でグロテスクだろうと。リアリティのある世界が現れる。そしてそこに神の世界とつながる、瞬間が訪れるということなのかもしれない。

 オコナーの小説を読むとすぐにわかるように、物語は打ちのめされるような結末を迎えることがほとんどだ。オコナーの短い生涯の中でも、そのことは絶えず指摘され、誤解されてきたのではないだろうかと想像する。

 この『秘儀と習俗』の中でも、なぜ希望のある物語を描かないのか、ハッピーエンドを迎えない物語を書かないのはなぜかということについて反論を試みている。いささかヒステリックにも感じる調子で、しかし確信を持って「希望のない人間は小説を読みも書きもしない」と語る姿は相変わらずすごい。とてもかっこいい。


 南部とカトリック。オコナーの小説に不可欠な二つの要素を持ち合わせていない私には、どこまで理解できるのか。あまり理解できた手ごたえもない。しかし文学が好きな人、小説を書く人は面白く感じる部分が少なからずあると思う。

 もっと手に入りやすく、日本語で読めるようになったらいいなと思う。
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