深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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フラナリー・オコナー『存在することの習慣』
存在することの習慣―フラナリー・オコナー書簡集存在することの習慣―フラナリー・オコナー書簡集
(2007/03)
フラナリー オコナー

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人生の習慣(ハビット)人生の習慣(ハビット)
(1992/09)
大江 健三郎

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 あなたは、「解放され」得る教会ではなくて、「自然の理にかなうように実証され」得る教会を求めているのだと思います。こうした超自然的教理についての科学的説明だの暗示だのがあれば、受け入れるのでしょう。人間が手持ちの才覚で知り得ることの中にこういう教理をはめこむことができれば、受け入れるのでしょう。もしこれが宗教でなくて知識、それとも仮定だったら受け入れるのでしょう。現代では、まわり中どこを見ても、宗教的成分を抜きにした「宗教」なるものを受け入れる人ばかりです。あなたの問いかけはこういうことです。決して理解できない神秘について実証的な説明を見つけ、なおカトリックであり得るとしたら、あなたはなにかを信仰のかわりに置き換えて、それでもカトリックでいられるだろうかと問いかけているのです。その答えは否です。

フラナリー・オコナー『存在することの習慣』


 ここ最近はほとんどフォローしていないが私は大江健三郎さんのファンで、数だけはそれなりに読んでいる。

 フラナリー・オコナーを知るきっかけになったのも、彼女の影響を受けて描かれた『人生の親戚』でだった。ただ『人生の親戚』はあまり好きな作品ではない。痛々しさだけが強く残っている。

 そのままで終わってしまうところ、古本屋で入手した大江さんの講演集『人生の習慣(ハビット)』がオコナーに関心を持つきっかけになった。
 オコナーの書簡集『The Habit of Being』から取られた表題の講演は、大学卒業後1年を記念する集まりを開いた若い女性たちに招かれて行なったもの。実の娘さんには言えないことを同世代の女性たちに語りかけるその話は、照れながら話す姿が浮かぶようでおもしろい。


 フラナリー・オコナーはアメリカのジョージア州出身の女性作家で、狼瘡という難病と闘いながら優れた短篇小説を残した

 オコナーの小説は、文庫で出ている新潮の短編集と『賢い血』を読んだことがあるだけだが、その救いのないストーリーは噂に違わず衝撃的だった。

 だがそれ以上に強烈だったのは、訳者の須山静夫さんがあとがきで引用しているオコナーの言葉だった。信仰について、また自らの作品について激越に確信を持って語る姿が心に残った。

 以来、評論集『秘儀と習俗』と書簡集『人生の習慣』はいつか読みたいと思っていた。

 そんなわけで『自由と尊厳を超えて』を読み終え、今は『秘儀と習俗(Mystery and Manners)』に挑戦している。

 そこでふと見つけたのが本書『存在することの習慣』で、『The Habit of Being』が思いがけなくも訳されていたことを知る。

 こういう良心的な本は購入したほうがいいのだろうけど、原著で600ページを超えるものが訳書では350ページ。たぶん抄訳。地元の本屋には置いてあるはずもなく、確認できないので図書館を利用することにした。すみません。


『存在することの習慣』は1948年23歳のころ駆け出しの小説家として出版社に売り込みをしていた頃から、1964年に39歳で亡くなるまでの手紙を4つの時期にわけて収録したもの。オコナーと親しかったサリー・フィッツジェラルドが編集し、注と前書きを加えている。

 この訳書には原著に収録されている792通のうち約3分の1、273通が収録されている。抄訳だろうという予想はやはり当たっていた。

 オコナーはジャック・マリタンというフランスのカトリック哲学者に影響を受けていて、「芸術の習慣」という概念を身につけようとした。

 これは今もよくわからないのだが、『人生の習慣』を使ってまとめると芸術家が作品を生み出すときに、自らも思いがけないような過程を経て、一個の作品ができあがる。

 それは芸術が経験を通して養った「芸術の習慣」が働いているのであり、意識・無意識に関わらず、芸術家の精神、全人格的なものが参加する芸術という行為を成功に導くのだという。

 編集者のサリー・フィッツジェラルドは前書きでこのことに触れオコナーが「芸術の習慣」を身につけたとし、さらに付け足して「存在することの習慣」というものも身につけていたのではないかとする。

 彼女の精神の活動特性のようなもので、その内面的なものが彼女の行為に反映する。これもまた意識されることもなく彼女という人間を特徴づけていく。これもまた捉えにくい概念だが、大江健三郎は次のようにまとめている。

 この人の生き方のモードとでもいうか、それはふるまいや言葉のすみずみまで染みついているが、しかし意識してそれを押し出していられるのじゃない。人柄の雰囲気というか、しかし確固たる雰囲気なんです。

大江健三郎『人生の習慣』「人生の習慣」より




 上にも書いたが、須山静夫さんのあとがきなどから、私はオコナーをいくらかエキセントリックな人物だと想像していた。

 小説家としてキャリアを積もうと意欲のあった少女が原因不明の難病にかかる。自由に移動することもかなわなくなり、その生涯を自宅で生活し、若くして死んでいった。

 しかしこの書簡集から受ける印象は全く違う。彼女の語る言葉は快活で、悲劇的なところは全く感じさせない。自らのことを諧謔を交じえて語り、友人に励ましの言葉を送る。

(あなたがたの)友達に、ここへ会いにくるように言ってください。大勢の人がきます。いい人も何人かきますが、おおかたはすごい変人で、私もおなじように変人だと期待してやってきて、がっかりして帰ってゆきます。

フラナリー・オコナー『存在することの習慣』


 神秘的な、旧約聖書に出てくるような人物だという予想は外れていたことがすぐにわかった。

 訳者の横山貞子さんによれば、オコナーは毎日午前中3時間を執筆に当てて、それ以外の時間は他のことをして過ごすという生活を送っていたという。そういった規則でオコナーが自らを律していたことは随所に窺われる。

 思うようにならない体とともに生きていく上で、習慣というものの持つ力を感じていたのかもしれない。

 周囲になかなか理解されずうんざりした様子がわかる手紙も多いし、文庫本を読めばわかるようにその言葉は滅法鋭い。

 何気ない日々の手紙だけれど、しかし生涯にわたって書き続けられたその手紙には、やはりオコナーの人柄がにじみ出ている。


 もちろん第2部以降になり、小説家としてジ地歩を固め出すと信仰や自らの作品について深く突っ込んだやりとりが行なわれるので、そちらの面でも十分興味深い。

「A」とここでは名前を伏せられている、近くに住む(といっても150kmぐらいは離れている)読者との文通が始まると俄然おもしろくなる。

 しかし須山静夫さんが『賢い血』で紹介した手紙で、本書の選にもれているものが結構あり、その点ではやはり全訳でないのが惜しまれる。


 ちなみに大江健三郎は「人生の習慣」という考え方に影響を受け、個人個人の「人生の習慣」が交じり合う幸せな瞬間を夢見た。

「人生の習慣」と題された講演で若い女性に向けて語ったのも、そういった家族のメムバーのスタイルが重なり合って、その家庭の一つのスタイル「人生の習慣」というものができれば、その家庭自体が「癒し」といったさらなる機能を獲得できるのではないかということだった。

 改めてこの大江健三郎の講演集を読んでいると、オコナーの書簡集から家族の機能を語ってしまうのはすごいなと思いつつ、とても微笑ましい講演で心地よい空気がある。『存在することの習慣』を読まれたは、こちらの『人生の習慣』も読んでみるとおもしろいのではと思う。

 もし私の娘が、――私はどういう人と結婚すればいいと思う、パパ? と訊ねてくれるようなことがあれば、われわれ父親はたいていそういう叶わぬ夢を持っているものですが(笑)、私はこう答えようと思っています。ここで娘のかわりに皆さんに聞いていただくならば、――それは自分の「人生の習慣」と似た感じの人か、これから共通の「人生の習慣」をたくわえてゆけるように思える人だよ! それが私の準備している答えです。

大江健三郎『人生の習慣』「人生の習慣」より

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