深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
山村修『遅読のすすめ』
遅読のすすめ遅読のすすめ
(2002/10)
山村 修

商品詳細を見る

 尾崎一雄の小説を読んでいると、そうした暮しかた、生きかたを発見したのだという自負や覚悟を、ザラリとした手応えとともに感じる。それにくらべると、書生の時間はツルツルしているだけで手応えがない。
 暮しの時間を、自分の手でめぐらせるのか、少なくともめぐらせようとするのか。あるいは、めぐる時間と競争しながら生きるのか。あるいは、時間のことなど意に介さないか。そうした暮しかたがあって、本の読みかたはそれにともなって形をなす。それを無視して月に何冊読めなどというのは、およそバカげたことなのだ。

山村修『遅読のすすめ』


『〈狐〉の選んだ入門書』がよかったので、こちらも読んでみることにした。

 積み上がっていく未読の山、絶えず出版される新刊の波に圧倒され、あとどれだけの本が読めるのだろうと思ったことは誰でもあると思う。

 現実を前にして、手っ取り早く情報を得る速読術がもてはやされ、数をこなしていることがステータスになる。
 そういった風潮に苦言を呈し、ゆっくりと本を読むことの効用を説いた本だということになるだろう。

 立花隆氏や福田和也氏を引き合いに出して速読派をきつく批判する一方で、遅読の効能のようなものがあまり見えてこない。ひがみととられても仕方のない面もある。

 その点で「遅読のすすめ」としてはあまり成功していないように思われる。最後の一節はそれでもやはり感動的だったけど。

 ここで著者が実際に考えているのは、社会人として、それぞれの生活を抱える生活人でありながら本を読むとはどういうことかということに思える。

 一日に読書に割ける時間はごくわずか。自らの生活に支障をきたすような無茶はできない。細切れのような時間をどう使うか。

 高野文子『黄色い本』を引用しながら語っているように、社会に出るまえと出てからでは全く違う生活になってしまう。

 時間を気にせず一日中読書に耽るような生活を送っている学生にとって、その変化はきっと大きな障壁のはず。

 特に文系の大学院では、そういった壁を前に立ち止まってしまった人のモラトリアムとしての側面が結構あるだろう。

 著者は何かに追われるような読書ではなく、生活とともにある、生活と一体となった読書からも豊かな楽しみが得られることを示そうとした。

 座って待っていれば得られるものではない。覚悟を決めて選び取るとまでは言わなくとも、自らの手で生活を「めぐらせる」と決めなければならないものだ。

 それには産みの苦しみが伴うとしても、自らスタイルを作り上げ、そこから喜びを得ることは十分可能であるという。「なんでもない人」としての生き方を選んだ人々にとっても、しあわせな体験を持つことができるという。そこに強く勇気づけられる。

 私自身も濫読・放恣に流れがちだけれども、自分なりの暮らし方をつくりあげたいと思う。

 読書に限らず生活の変化に戸惑っている人、変化を控えている人に特におすすめしたい。


 もう一つ気に入っているのは、引用されている文章が、知らない作品のものばかりながら、素敵だと思えるものが多いところ。

 武田百合子さんの『富士日記』の一節はそれ自体で悲しみが込み上げてくるようなパンチのあるものだった。

 持ちきれないほどの無花果を食べながら歩くベンヤミンや杉浦明平と立原道造の喧嘩を引用した部分などは笑ってしまう。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://deepseafishtank.blog123.fc2.com/tb.php/227-f0cae8da
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。