深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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堀井憲一郎『落語論』
落語論 (講談社現代新書)落語論 (講談社現代新書)
(2009/07/17)
堀井憲一郎

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 近代が主張する普遍性を、落語はきちんと拒否している。
 それは軍艦に対して江戸っ子の意気地を見せてやろうというレベルの、馬鹿馬鹿しい反抗でしかない。さほど意味はない。実効性も薄いだろう。
 だが、個人の心持ちとしては大きく力を発する。人は、さのみ、広がらなくてもいいのだろう、という主張である。インターネットで世界につながり、飛行機で世界中へ飛べ、いつでも携帯電話でどことも連絡を取れようとも、人間一人の大きさは変わらない。「起きて半畳、寝て一畳」、その広さがあれば生きていける。どんな長距離を移動しようと、身体的負担があまり感じられなければ、旅をしたことにならない。人のからだはかぎりがあり、できることにだって限りがある。だからこそ、無意味に広げるな、ということだ。「広げるな」という考えは、まず近代からは教えてもらえない。落語からばかり教えて貰った知恵である。落語を聞いていくと、生きていくごく身近なところで力になる。近代の力は、日常生活と関わりのない素晴らしい天上レベルで、その誇大妄想力を発揮していって、おれやハチ公やきさっぺの知らないうちに、何かが変わってゆくばかりである。そこでおもい煩っていても、何も変わらない。まず、地べたに近いところでしっかりと生きていけ。そういうことも教えてくれる。

堀井憲一郎『落語論』


 漱石が落語に影響を受けていたというのはよく聞く話で、以前から落語に学べるものがあるんじゃないかと関心があった。

 最近、発刊された本書を見かけ、新書で手頃であり、評判もよさそうなので読んでみることにした。

 本書は年に400回は寄席に行くという著者が、落語について語ったもの。本質論、技術論、観客論の3部から構成されている。
 落語「入門」ではなく、あくまでも落語「論」なので、落語とははどういうものかということが中心になる。落語を知らなくても読んでもおもしろいけれど、落語世界の導入にはちょっと厳しい。語り口もちょっと癖がある。

 そもそも落語はライブであり、メディアを通して接する落語は本質が欠落している。そのため東京か大阪、せいぜい京都でしか落語には触れられないのだという。この時点で田舎者の私はアウトであった。


 2部の技術論では落語家の技術が詳細に分析されていて、特に落語を知らなくても楽しめる内容になっていておもしろい。

 落語は歌のようなものであり、身体に働きかけてくるものだという。基本的には心地よい音を出せる落語家が有利らしい。

 声の高低、声の強弱、声の長短、声の高揚、人物によって声を使い分けしない。この5つが落語を聞きやすくするポイントだという。

 若手向けに書いていると自ら語る部分もあって、ボケに力を入れては受けないなど、話をする際への示唆に富んでいると思う。


 落語には基礎テキストはないし、タイトルもないし、キャラクターという記号的なものもないという。サゲ(オチ)すらないという。

 そういう近代で意味があるとされるようなものは落語の本質ではなく、話し手が言葉によって客を惹き込み、全員が一体となるような得意な空間を作り出す。そういう空間が作り出せれば内容すらどうでもいい。

 話し手と聞き手が一体となって集団でトリップする。そういうちょっと神話的、宗教じみた行いが落語なのだと著者はいう。

 だから聞き手も落語の一部であり、その空気を乱さないように、集団に同調するようにする必要があるのだ。


 個人的には落語の評論に対して語っている部分が一番おもしろかった。落語を聞いて何かを語ろうとする個人をドライブしているのは嫉妬なのだという指摘は響いた。
「間」という都合のいい言葉では何も語られていないという指摘にもはっとさせられる。こんなブログをやっている自分にも耳が痛い。
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