深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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B. F. Skinner 『Beyond Freedom and Dignity』
Beyond Freedom & DignityBeyond Freedom & Dignity
(2002/03)
B. F. Skinner

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 以前にカーヴァーを読んだときから、もう一年以上経ってしまった。また前の更新からもだいぶ間が空いてしまった。

 洋書の読書に割く時間はだいぶ減ってしまったものの、一応ちまちまと続けている。ずっと読んでいたのが、だいぶ前に古本市でつい買ってしまったバラス・スキナーの『自由と尊厳を超えて』。

 このブログでも何冊か取り上げてきましたが、以前に『行動分析学入門』(産業図書の方です)を読んで衝撃を受けてからスキナーの心理学には関心を持ってきた。そんなわけでスキナーについてはどちらかといえば否定的に議論されることが多い気がしますが、私自身は結構好きだったりするのです。

 強化スケジュールなどといった研究実績はもちろんのこと、スキナー箱や自動記録装置といった研究方法を自ら編み出したり、はたまた小説まで書いてしまったりという多才ぷりは素直にすごいなと。

 そんなわけでいつかはスキナーの著作に直接挑戦してみたいなと思っていたのだけれど、残念ながら訳書は軒並み絶版。原著に当たるしかない。最初は小説で読みやすそうな『ウォールデン・トゥー』にしようと思っていたのですが、そもそも『森の生活』を読んでいなかった。

 そこで一応手許にもあることだし、物議をかもしたセンセーショナルな一冊だということもあり、こちらに挑戦することにしたのです。
 小説を書くぐらいだから、文章は読みやすいだろうと決め込んでいたが、完全に甘かった。自分の英語力ではなかなか理解が進まず、一部訳してみたもののよくわからない代物に……。

The fundamental mistake made by all those who choose weak methods of control is to assume that the balance of control is left to the individual, when in fact it is left to other conditions. The other conditions are often hard to see, but to continue to neglect them and to attribute their effects to autonomous man is to court disaster. When practices are concealed or disguised, countercontrol is made difficult; it is not clear from whom one is to escape or whom one is to attack. The literatures of freedom and dignity were once brilliant exercises in counter control, but the measures they proposed are no longer appropriate to the task. On the contrary, they may have serious consequences, to which we must now turn.
〔拙訳〕 私たちに対するコントロールを弱いものにしていこうという立場の人は、行動をコントロールする力をその個人が握れるようになるという誤った前提に立っている。ところが、実際のところ、そのとき行動を支配しているのはもっと他の条件なのだ。そういった他の条件というは往々にして目には見えない。だからといって、それに気づかずその効果を自律的人間なるものに帰していては破滅を招く。隠されたり偽装された手段を使われたとき、それに対抗することは難しくなる。何から逃れるのか、何に立ち向かえばいいのか、わからないからだ。
 かつて自由と尊厳に関する思想は支配への対抗手段として目覚ましい成果を残した。しかしそれはもはや適切なものではなくなってしまった。それどころか、深刻な事態を招きかねないものになってしまっているかもしれないのだ。私たちはそのことに目を向けなければならない。

B. F. Skinner『Beyond Freedom and Dignity』


 前置きが長くなってしまいましたが以下メモです。

 私たちは科学の力によって多くの問題を解決してきた。しかし科学の進歩が必ずしも幸福をもたらすものではないことも次第に明らかになってきた。

 核兵器や生物兵器の脅威にさらされ、医療の進歩等により増大する人口には食糧やエネルギーの問題がついてまわる。どれだけ技術が進歩しようともそれを使う人間が適切にコントロールしなければ破滅を招きかねない。

 しかるに人間の行動についての科学は、ギリシア以来大きく変わっていない。あいかわらず行動の原因を人間の内部に求めている。つまり人間は自律しているのだと。

 感情、意志、性格など一般的に行動の原因とされているものに対し、スキナーは副産物以上の価値を認めなかった。

 そして環境が遺伝子を淘汰していく進化のプロセスと同様に、適応的な行動の頻度が増していくとする随伴性によって行動を説明しようとした。

 スキナーにとって自律的な人間という考えをやめ、行動の科学的な説明によって問題を解決していくためには、自由と尊厳は乗り越えられなければならない問題だった。

 スキナーは自由を罰や他人からの支配から逃れようとするところから生まれたと考えた。一方、尊厳を理解できない行動に対する賞賛、またその賞賛を求めるところに求めた。

 自由であると感じることは必ずしもコントロールが存在しないことを意味しない。むしろ見えないコントロールに対して免疫をなくし、実際に存在する環境からのコントロールをよい方向へ変えていくことへの障壁になっている。

 一方賞賛を求める気持ちは行動の原因を指摘されることを嫌う。他のところに出所がはっきり求められてしまっては、せっかく勝ち得た賞賛にけちがつくからだ。

 そしてスキナーは罰の使用をできるだけ避け、賞を中心に使ったコントロールにより社会を向上させていくことを志向したが、この点で自由と尊厳とは相容れなくなると考えていたようだ。


 ここからさらにスコープを広げ文化の問題に移っていく。スキナーは、文化も淘汰のプロセスから捉えようとした。その構成員にその文化のために行動させることを根づかせた文化はより競争力を持つのではないか。

 文化も同じプロセスで発展していくならば、文化のデザインすらもできると考えていたようである。


 この本だけを読んでいる限りでは、スキナーはあまりにも行動の科学を素朴に信じすぎているのではないかと、私自身も不安になってくる。

 しかし、上に引用したところのように、実際に存在するコントロールに目をつぶり、ほしいままにされているという指摘は重要なんじゃないかなとも思う。


 スキナーに対して、人間が環境に対して盲目的に反応しているだけであるかのように感情的に反発する向きもあったようだ。

 しかしスキナーは人間の行動の原因を環境に求めつつも、その環境に手を加え自らに合わせてきたのは人間に他ならないことを認めていた。

 この点は同じく環境決定論に見えるアフォーダンス理論も、生活体が行動する中で新しいアフォーダンスに出会い、フィードバックによって調整されるという、相互作用を強調するのと似ている気がしておもしろいなと思う。


 スキナーは人間を動物扱いしたのではなかった。あくまでも人間が進歩していく道を模索していた。あまりに人間を信じすぎているといってもいいかもしれない。そんな気がした。
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