深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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須賀敦子『ヴェネツィアの宿』
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須賀 敦子

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 きいっと心をえぐるような音をたてる小さな鉄門をあけて私は中に入った。正面に、他よりは大きな十字架が一基あり、その前に二列に向きあって、それぞれの側に五、六基、より低い十字架がならんでいて、そのひとつひとつに、葬られた修道女の名と生年月日、そして亡くなった年と月日と、それぞれの故国の名がきざまれていた。親しかった人の名もあり、知らない名もあった。おもわず姿勢をただしたのは、畏敬の気持からというのとは、すこしちがっていた。しゃんと背をのばしなさい。修道女たちがそういった注意する声がきこえそうだったのだ。まっすぐに立って、私たちの顔を見てはっきり挨拶なさい。
「おーい、そんなところでなにしてるの。荷風はこっちだったよ」
 友人の呼び声に、また、ここにはいつかひとりで来よう、と思いながら、私は暗い小径を声の方角に歩いていった。

須賀敦子『ヴェネツィアの宿』「寄宿学校」より


 幸田文の『木』を読んで、少しエッセイを読んでみたくなった。

 アントニオ・タブッキの翻訳などで知られる須賀敦子がエッセイストとしても有名だと知ったのは『ミラノ 霧の風景』を新古書店で見つけたから。白水Uブックスや講談社文芸文庫はいいシリーズなので応援したいとは思うものの、価格がネックで、安く買えるときはつい手がのびてしまっていた頃のことだった。

 正直なところ、以前『ミラノ 霧の風景』を読んだときはさらっと流してしまい、あんまり印象に残っていない。しかし作風は違うものの、遅いデビューでエッセイで有名というところは幸田文と似ているなとふと思い出し、こちらを読んでみることにした。
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幸田文『木』
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 エリートよりももっといい気分の林もあります、という。谷をはさんだ向う側の林だった。なんだか今見てきた大樹の残像があって、その林がいいというのがわからず、ぼんやりと見ていた。谷を距てているから遠くもあるし、ごく普通のような景色としか思えない。ただ、ここはそろって幹がまっすぐだった。斜に傾いだ気がない。遠見はことに、垂直の中の斜めはよくわかるのだが、それがなかった。だから行儀がいいのだが、まさかそれが取柄というわけでもなかろうに、と思ううち気が付いた。行儀のいいものは上品だが、しばしば活気に欠けることが多い。それをここは元気に茂っている、といった感じがある。
「その通り、この林は元気です。老樹と、中年壮年の木と、青年少年の木と、そして幼い木と、全ての階層がこの林では揃って元気なのです。将来の希望を託せる、こういう林が私たちには一番、いい気持に眺められる林なんです。」

幸田文『木』「ひのき」より


 ラジオ録音機能付ICレコーダーでラジオを録音し始めて、ちょっと値は張ったもののいいものを買ったと思っている。手始めに録音しておいたNHKラジオ第2の「朗読の時間」を片手間に聞いてみる。作品は幸田露伴の「あやしやな」「露団々」で、露伴もこういう作品を書いていたんだと意外な感じがする。そして今はちょうど『五重塔』をやっている。

 それでふと幸田文の本が積読になっていることを思い出して引っ張り出してきたのがこちら。幸田文に出会ったのも、川端康成と似ていて、現代文の参考書か何かだった。それは一見何気ない文章だったのだが、力強くはきはきとしていて、いいなと思わせてくれた。

 この『木』は、父親露伴の教えで草木に関心を持ってきた著者が、おもしろい木があると聞くと出かけていき、日本各地の木を前にして思ったことがつづられている。
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A.A. Milne『Winnie-the-Pooh』
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A. A. Milne,Ernest H. Shepard

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'It doesn't do them any Good, you know, sitting on them,' he went on, as he looked up munching. 'Takes all the life out of them. Remember that another time, all of you. A little Thought for Others, makes all the difference.'(「アザミの上に座るのは、アザミに優しいことじゃないな」イーヨーは口をもしゃもしゃさせながら顔を上げて続けた。「しなしなになってしまっておる。次のことを覚えておいてくださいよ、皆さん。他人への少しの思いやりが、大きな違いを産むってことをね」

A.A. Milne『Winnie-the-Pooh』


 iPad が登場して電子書籍がクローズアップされ始めた頃、iPhone でも「iBooks」という電子書籍・PDF リーダーのアプリが使えるようになった。プロジェクト・グーテンベルクの電子データをダウンロードして読めたりする。

 このアプリには最初から『クマのプーさん』の原文が入っている。装丁や挿絵がとても美しく再現されていて惹かれていた。『Mystery and Manners』を読み終えた勢いで、iPhone で電子書籍を試してみることにした。

 この『クマのプーさん』は、語り手が息子のクリストファー・ロビンと彼のお気に入りのテディベアのプーを中心とした森での愉快なお話を語ってきかせるという形をとった物語。
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川端康成『古都』
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川端 康成

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「千重子は、北山杉の村へいくのが好きやな」と、母は言った。「なんでどす」
「杉がみな、真直ぐに、きれいに立って、人間の心もあんな風やったら、ええなと思うのどっしゃろか」
「そんなん、千重子とおんなじやないの」と、母は言った。
「いいえ、まがったり、くねったり……」
「そら、そうやな」と、父が口を入れた。「なんぼ素直な人間かて、いろいろ考えるもんや」
「……」
「それでええのやないか。北山杉みたいな子は、そらもう可愛いけど、いやへんし、いたとしたら、なんかの時に、えらいめにあわさるのとちがうやろか。木かて、まがっても、くねっても、大きなったらええと、お父さんは思うけど……。こない狭い庭の、あのもみじの老木を見てみ」
「千重子みたいなええ子に、なにお言いやす」と、母は少し気色ばんだ。
「わかってる、わかってる、千重子は真直ぐな娘なのは……」
 千重子は中庭に顔を向けて、しばらくだまっていたが、
「そのもみじみたいな強さ、千重子には……」と、声にかなしみがふくまれて、「もみじの幹のくぼみに生えてる、すみれくらいのもんどすやろ。あ、すみれの花が、いつのまにや、なくなってしもた」
「ほんに……。来年の春は、きっとまた咲きまっせ」と、母は言った。
 うつ向いた千重子の目は、もみじの根かたの、キリシタン灯籠にとまった。うちからの明りでは、朽ちた聖像はよく見えなかったが、なにか祈りたいようだった。
「お母さん、千重子はほんまは、どこで生まれたんどす」
 母は父と顔を見合わせた。
「祇園さんの桜の花の下でや」と、太吉郎はきっぱり言った。

川端康成『古都』


川端康成の文章に触れるようになったのは、いつかの現代文のテストに「雪国」の一節が出てきたからだ。それは列車の窓に映る女を見ているという有名な「夜光虫」の下りだった。

それはあまりほめられた行為ではないはずであるが、美しいと思った。そのイメージは今でも焼き付いている。

それから何度か川端作品に挑んできたが、実のところ、いい読者ではなかった。「雪国」も内容となると記憶が覚束ない。「眠れる美女」や「みずうみ」といったセンセーショナルな作品に刺激を受けるのが関の山といったところだった。
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Flannery O'Conner『Mystery and Mannars』
Mystery and Manners: Occasional ProseMystery and Manners: Occasional Prose
Flannery O'Connor,Sally Fitzgerald,Robert Fitzgerald

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Where you find the terms of your apeal may have little or nothing to do with what is challenging in the life of the church at the morment. And this is particularly apparent to the Southern Catholic writer, whose imagination has been molded by life in a region which is traditionally Protestant. The two circumstances that have given character to may own writing have been those of being Southern and being Catholic. This is considered by many to be an unlikely combination but I have found it to be a most likely one. I think that the South provides the Catholic novelist with some benefits that he usually lacks, and lacks to a conspicuous degree. The Catholic novel can't be categorized by subject matter, but only by what is assumes about human and divine reality. it cannnot see man as determined; it cannnot see him as totally depraved. It will see him as incomplete in himself, as prone to evil but as redeemable when his efforts are assigned by grace. And it will see this grace as working through nature, but as entirely transcending it, so that a door is always open to possibilities and the unexpected in the human soul. Its center of meaning will be Christ; its center of destruction will be the devil. No matter how this view of life may be fleshed out, these assumptions form its skeleton.
(小説家が自己の奥底で伝えるべきものを見出しても、それはおそらくその時の教会生活に課題となっていることとはほとんど全く関係がない。このことは、伝統的にプロテスタントの地域である南部の生活に想像力をかたどられてきた南部のカトリックの作家にとっては特に明瞭に感じられる。私自身の作品を特徴づけてきたものは南部の人間であることとカトリックであることなのだ。これは多くの人には奇妙な組み合わせに映るかもしれないが、私にとってはこれ以上なくしっくりくる組み合わせだと感じている。南部人であることはカトリックの作家に往々として欠けているものを提供してくれる。それもカトリックの作家にはしばしば目立って欠けているものを。カトリックの小説というものはその主題によってカテゴリー分けできるものではない。それは人間的なリアリティと神的なリアリティに対する姿勢によってのみ行うことができる。そこでは人間を決定づけられた存在とは見ない。完全に邪悪な存在とも見ない。不完全で、悪に傾きがちな存在と見る。しかし同時に彼の努力が恩寵によって支えを受けたとき救済されうる存在と見る。そしてこの恩寵は自然を通して働くが、それを完全に超越し、そのために可能性と人間の魂の不可知性へと扉が常に開かれている。その意味の中心はキリストである。破壊の中心には悪魔がいる。こういった生の見方がどのように肉づけされていようと、こういった姿勢がその骨格を形作っている。)
But you don't write fiction with assumptions. The things we see, hear smell, and touch affect us long before we believe anything at all, and the South impresses its image on us from the moment we are able to distinguish one sound from another. By the time we are able to use our imaginations for fiction, we find that our senses have responded irrevocably to a certarin reality. This discovery of being bound through the senses to a particular society and a particular history, to particular sounds and a particular idiom, is for the writer the beginning of a recognition that first puts his work into real human perspective for him. What the Southern Catholic writer is apt to find, when he descends within his imagination, is not catholic life but the life of this region in which he is both native and alien. He discovers that the imagination is not free, but bound.
(しかし物の見方によってフィクションを書くのではない。私たちは、何かを信じるずっと前から、見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったりするものに影響を受けている。南部は私たちがある音を他の音と区別ができるようになる瞬間から私たちにイメージを刻みつけている。私たちがイマジネーションを働かせてフィクションを作るようになるまでに、私たちの感覚は現実の状況に取り返しのつかない反応を行ってしまっている。感覚を通して特定の社会、特定の歴史、特定の音、特定の言葉に縛られているという発見は物書きにとってその作品にリアルな人間的視点を与える最初の認識になる。南部のカトリックの作家が自らのイマジネーションに降りていったときしばしば、カトリックの生活ではなく、固有の土地でありながら異質な存在でもある南部の生活を発見する。イマジネーションは自由ではなく縛られている。)

Flannery O'Conner『Mystery and Mannars』「In the Protestant South」より


『存在することの習慣』で少し触れたけれども、『Beyond Freedom and Dignity』を読んでから、少しずつこちらを読み進めていた。一冊読むのに一年かかってしまっている。やはり洋書はコストパフォマンスがいい。

 大江健三郎さんの『人生の習慣』という講演集からフラナリー・オコナーに関心を持ち、須山静夫さんの訳で短編集と『賢い血』を読んだ。そこでオコナーの言葉に衝撃を受け、オコナーの文章、この『秘儀と習俗』と『人生の習慣』を読んでみたいなと思ってきたというのは『存在することの習慣』で書いたとおり。

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