深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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ノーマン・メイラー『タフ・ガイは踊らない』
タフ・ガイは踊らない (ハヤカワ・ノヴェルズ)タフ・ガイは踊らない (ハヤカワ・ノヴェルズ)
(1985/10)
ノーマン・メイラー吉田 誠一

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 だが、夜明けがやってきて、地獄町(ヘル・タウン)の売春婦どもの客引きの声に聞き入らざるをえなくなると――その声はなぜいつも目覚めと眠りの間に最も大きくなるだろうか、まるで目覚めと眠りとが一世紀も隔たっているかのように――わたしは?のガーガーいう甲高い鳴き声にようやく気づいた。夜の幼虫(ラーヴィー)を追い払うような甲高い鳴き声に。ところで、「幼虫」と声に出してみると、ささやかな楽しみが芽生える――そのさなかに、ラテン語の一語がよみがえってきたのだ。汝ラーヴィーよ、汝幽霊どもよ! エクセター校のラテン語も、まんざら捨てたものではない。

ノーマン・メイラー『タフ・ガイは踊らない』


 このブログを始めた頃にメイラーの訃報が流れて試みに記事を書いた。その時に読んでみようかと言いつつずっと積読になっていた本書。

 これもブックオフで入手したもので、よく見かけるので入手は簡単だと思う。映画化されているらしいので、その関係でよく出回ったのかもしれない。

 本書は帯によればメイラーが初めて挑戦したサスペンスタッチの探偵小説。タイトル通り、ハードボイルドぽいところもある。
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マーク・ピーターセン『続 日本人の英語』
続・日本人の英語 (岩波新書)続・日本人の英語 (岩波新書)
(1990/09)
マーク ピーターセン

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 それが英訳だったということを考えると,おかしなことではあるけれど,アメリカで『山の音』を読んだとき,人には伝えにくいようなこころづいよい気持ちが段々わいてきた.極端に言えば,アメリカに生まれ育った私は物心がついて以来,なぜか自分が常に周りに人から精神的に微妙に外されているような気持ちがあったが,目立たない身体の障害を隠したくなるように,私はその小さな孤独を自分にもずっと隠そうとしてきた.私はその小さな孤独を自分にもずっと隠そうとしてきた.驚いたことに,The Sound of the Mountain を読んだとき初めて,その孤独感こそが誰かに「承認」されたような気持ちがして,とまどいながらも,大いに嬉しかったのである.だから,その小説が部分的にも「病的」だと言われたら困る.

マーク・ピーターセン『続 日本人の英語』


 とっくの昔に読んだような気がしていたのだけど、続編はまだだったようなので早速読んでみることにした。

 本書は日本人の書く英語にネイティブの目にどう映るか、その違和感をまとめた『日本人の英語』の続編。著者はアメリカ出身の日本文学研究者。

 正直なところ、だいぶ前に『日本人の英語』を読んだときはなかなかに難しく、あまり印象に残らなかった。しかし今回はどの内容も興味深く、多少は私の英語力もましになっているのかもしれない。
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ヴィクトル・ユゴー『九十三年』
九十三年〈上〉 (潮文学ライブラリー)九十三年〈上〉 (潮文学ライブラリー)
(2005/03)
ヴィクトル ユゴー

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九十三年〈下〉 (潮文学ライブラリー)九十三年〈下〉 (潮文学ライブラリー)
(2005/03)
ヴィクトル ユゴー

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「二人ともきけよ。ぼくは重要な要件のためにやってきたんだ。われわれ三人のうちのだれかが、きょうの議会で、国民公会にある法案を提出しなければならんのだ」
「ぼくはだめだ」と、モントーが言った。「ぼくは侯爵だったから、ぼくの言うことなど、だれもきいちゃくれない」
「ぼくだって、カプシン僧だったからな、だれもきいちゃくれん」とシャボが言った。
「おれだってだめさ」と、マラが言った。「おれはマラだからな」
 しばらく沈黙が流れた。

ヴィクトル・ユゴー『九十三年 上』


 その名前の割には『レ・ミゼラブル』以外の作品に触れる機会が少ない文豪ヴィクトル・ユゴー。

 この『九十三年』は以前ブックオフで運良く見つけた文庫版。それほど入手困難ではないはずだけれど、これがあるからブックオフ通いはやめられない。

 全集があるだけでもいいとは思うものの、やっぱりちょっと高価。『ノートル=ダム・ド・パリ』ぐらいは文庫で気楽に読みたいものです。
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堀井憲一郎『落語論』
落語論 (講談社現代新書)落語論 (講談社現代新書)
(2009/07/17)
堀井憲一郎

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 近代が主張する普遍性を、落語はきちんと拒否している。
 それは軍艦に対して江戸っ子の意気地を見せてやろうというレベルの、馬鹿馬鹿しい反抗でしかない。さほど意味はない。実効性も薄いだろう。
 だが、個人の心持ちとしては大きく力を発する。人は、さのみ、広がらなくてもいいのだろう、という主張である。インターネットで世界につながり、飛行機で世界中へ飛べ、いつでも携帯電話でどことも連絡を取れようとも、人間一人の大きさは変わらない。「起きて半畳、寝て一畳」、その広さがあれば生きていける。どんな長距離を移動しようと、身体的負担があまり感じられなければ、旅をしたことにならない。人のからだはかぎりがあり、できることにだって限りがある。だからこそ、無意味に広げるな、ということだ。「広げるな」という考えは、まず近代からは教えてもらえない。落語からばかり教えて貰った知恵である。落語を聞いていくと、生きていくごく身近なところで力になる。近代の力は、日常生活と関わりのない素晴らしい天上レベルで、その誇大妄想力を発揮していって、おれやハチ公やきさっぺの知らないうちに、何かが変わってゆくばかりである。そこでおもい煩っていても、何も変わらない。まず、地べたに近いところでしっかりと生きていけ。そういうことも教えてくれる。

堀井憲一郎『落語論』


 漱石が落語に影響を受けていたというのはよく聞く話で、以前から落語に学べるものがあるんじゃないかと関心があった。

 最近、発刊された本書を見かけ、新書で手頃であり、評判もよさそうなので読んでみることにした。

 本書は年に400回は寄席に行くという著者が、落語について語ったもの。本質論、技術論、観客論の3部から構成されている。
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ウィリアム・T. オドノヒュー & カイル・E. ファーガソン『スキナーの心理学』
スキナーの心理学―応用行動分析学(ABA)の誕生スキナーの心理学―応用行動分析学(ABA)の誕生
(2005/12)
ウィリアム・T. オドノヒューカイル・E. ファーガソン

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 行動の原因としてなぜ感情とか、認知とか、そうしたものがおきまりのように引き合いに出されるのだろうか? 行動に対する擬似説明が何故幅を利かせるのだろうか? スキナー(1974)は、もしある出来事に別の出来事が続いて生ずると、最初の出来事を原因(時間の前後関係を因果関係と混同する虚偽の論理)と信じてしまう人がいかに多いかを観察している。感情とか思考は通常、行動に先行するので、その内的状態を行動の原因としてしまう。感情、思考、その他の認知の現象は原因ではなく、単に行動に伴うだけである。すなわち、内的状態は付帯情報に過ぎない。どうしてそのように行動したのかに関する情報ではない。

ウィリアム・T. オドノヒュー & カイル・E. ファーガソン
『スキナーの心理学』


『自由と尊厳を超えて』を読み終わって色々と調べていると、そのものズバリの本書の存在を知った。

 先に出会ったいたら原著のほうももう少し楽に読めたかもしれないと思いつつ、こういう本が日本語で読めることに感謝。

 本書は長い間、誤解と偏見にさらされたスキナーの業績を紹介し、応用行動分析というその現実世界への適用に対する抵抗を和らげようとするもの。
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