深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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佐々木正人『知覚はおわらない』
知覚はおわらない―アフォーダンスへの招待知覚はおわらない―アフォーダンスへの招待
(2000/10)
佐々木 正人

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佐々木 さきほどちょっとふれましたが、心理学は、一つは「アフォーダンス」によって、どうも本当の意味を持つ環境を発見したんですけれど、もう一つ、発達ということ、つまり、この世にあるものはすべて持続なんだということ。生まれてから死ぬ。オリジンもあるし死もあるんだけれども、それ自体は持続なんだというところが、ポイントだと思うんです。
 一挙に身をおくっていうと、何か瞬間めいたというか、ステージモデルという感じがするんですけど、じつは緩慢に持続しながらどこかに引き込まれていくというのはたしかだと思うんです。記述する立場とか、研究する立場になったら、それが起きるのをただジーッと横で待って終わってから書きはじめるというか、まだそれしかないという感じがしますけれどね。

佐々木正人『知覚はおわらない』


 本書は著者が雑誌に発表した記事やスポーツや運動、芸術に携わる人々との対談を集めたもの。

 そういった点では、副題には「アフォーダンスへの招待」とあるが、アフォーダンスについて何も知らない人には向かないかもしれない。けれど対談などは読みやすい。

 タイトルはギブソンの「知覚には終わりがない。知覚は進みつづける」という言葉からとられたもの。引用したところのように行動の持続的な変化、発達といったところに著者の関心があるようだ。
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モンテーニュ『エセー(6)』
エセー〈6〉 (ワイド版 岩波文庫)エセー〈6〉 (ワイド版 岩波文庫)
(2002/07/16)
ミシェル・エイクム・ド モンテーニュ

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 もしもわれわれが生き方を知っていないなら、われわれに死に方を教えて、終りだけを全体と違うものにしようとするのは間違っている。もしもわれわれが着実に平静に生きることを知ったとすれば、同じように死ぬことも知るであろう。哲学者はいくらでも自慢するがよい。《哲学者の一生は死の考察である》と。けれども私の考えでは、死はたしかに生の末端であるが目的ではない。終極ではあるが目標ではない。生はそれ自身が目的であり、その目指すところでなければならない。生の正しい研究とは、生を整え、生を導き、生に堪えることである。このいかに生きるかという普遍的な重要な章にはいろいろな義務が含まれるが、いかに死ぬかという項目もその一つである。しかも、われわれの不安が死に重みを与えさえしなければ、きわめて些細な項目に属するものである。

モンテーニュ『エセー(6)』


 少し前に「徒然草」を手をとったときから読んでみたいと思っていたモンテーニュの「エセー」。ようやく岩波文庫版「エセー」全六冊を読み終えた。

 読み始めたころはとんでもないものに手を出してしまったかもと思っていた。冗長で退屈な部分が目につき、六巻まで投げ出さずにいられる自信はなかった。

 しかし二分冊目に入ったところですっかりはまったしまったと以前書いた。自分のことばかりを考えながら自らを飾らず、他人との議論を楽しみ快活さを失わない著者に魅きつけられた。

 六分冊目では、この試論も佳境に入り、「書物について」の章で語ったように、「いかに生きいかに死ぬか」といった問題に答えようとした記述が増えてくる。
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石橋湛山『石橋湛山評論集』
石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)
(1984/01)
石橋 湛山

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 しかしながらここに問題となって来ることは、しからば我が現代の人心は何故にかくの如く浅薄弱小、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対して直ちにこう答える。曰く、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼らに欠けておるが故であると。例えばこれを吾輩が前に挙げた外交家の例に取って見よ。彼らは日本の立場がわからないのである。日本の現在および将来の運命を決する第一義はどこにあるか。徹底した目安がついておらないのである。徹底した目安がない。ここにおいてか彼らはやむをえず、その時々の日和を見、その時々の他人の眼色を窺って、行動するよりほかに道はないのである。また例えば前に挙げた訴訟の問題の如き、もしその人に、またその人の周囲に居た弁護人や知人に、自己存在の第一義について徹底した智見があって、真に自己が生きるためには、第一に何を主張しなければならぬかということがわかっておったならば、決してあのような処置は取らなかったはずである。けだし徹底せる智見は力である。徹底せる智見なきが故に、主張すべき自己がわからず、主張すべき自己がわからぬ故に、即ちその我は弱小浅薄非力無確信となるのである。

石橋湛山「哲学的日本を建設すべし」より


 今後、日本の人口が否応なく減少していくためか、湛山の「小日本主義」という言葉を耳にすることも増えてきたように思う。彼の時代に問題になったのは人口過剰と方向が逆だけれど、おもしろい視点が得られるかもしれないと思って読んでみた。

 本書は東洋経済新報社の記者として、また戦後は政治家として多くの評論を残した石橋湛山の政治評論を中心に集めたもの。戦前から戦後にかけての活動時期が5つにわけられ、個々の評論は年代順に並べられている。

 文章は堅い感じがするけれども、雑誌に書かれていたこともあってとても読みやすく、語り口は明快だと思う。
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モンテーニュ『エセー(5)』
エセー〈5〉 (ワイド版 岩波文庫)エセー〈5〉 (ワイド版 岩波文庫)
(2002/07/16)
ミシェル・エイクム・ド モンテーニュ

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 もしも私に向かって、ミューズの女神をただ慰みのため、暇つぶしのために用いることはこの女神の品位を落すことだと言う人があるならば、その人は、私と違って、快楽や遊戯や娯楽がどんなに価値があるものか知らない人である。私はむしろ、それ以外の目的こそすべて笑うべきものだと言いたい。私はその日その日を生きている。そしてはばかりながら、ただ私のためにだけ生きている。私の目的はそこに尽きる。私は若い頃に見せびらかすために勉強した。その後は少し賢くなるために勉強した。いまは楽しみのために勉強している。けっして何かを獲得するためではない。こういう家具でもって、私の必要を満たすのみならず、そこからさらに数歩を進め、床や壁を飾ろうという空虚な金のかかる考え方はずっと前に捨ててしまった。

モンテーニュ『エセー(5)』


 岩波文庫版「エセー」六分冊の五分冊目読了。長かった「エセー」も後一冊200ページほど。

 モンテーニュは1580年に「エセー」一、二巻を発表した後、1588年に一、二巻に大幅に手を加えるとともに第三巻十三章を付け加えた。この五分冊目からその第三巻に入る。

 より晩年の筆になるこの第三巻は円熟した語り口で伸びのびと自らの考えを展開しているように見える。

 断定を避けるような部分は目立たなくなり、自信と力強さを感じさせる文章でさらに楽しい読みものになった。
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島宗理『パフォーマンス・マネジメント』
パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学
(2000/03)
島宗 理

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 自分に自信を持つと自己管理がうまくいくわけではない。そう考えると「自己管理がうまくいかないのは自分に自信がないからだ」と個人攻撃の罠にはまってしまう。真実はどうやら逆のようである。自己管理がうまくいくと自信は後からついてくる。そして自己管理を成功させるためにはパフォーマンス・マネジメントが役に立つ。

島宗理『パフォーマンス・マネジメント』


 新古書店で見つけて衝動買い。

 副題にもあるように、本書のパフォーマンス・マネジメントとは行動分析学の知見を使って問題解決を行う方法のことをいう。

『はじめての応用行動分析』は教育場面に限られていたが、ここで取り上げられている事例はスポーツやダイエットといった問題だけでなく、部下の管理といったビジネス面など浅く広く扱っている。

 著者が『行動分析学入門』の姉妹編というように、ストーリー形式で進行する。その後、簡単な解説があり、クイズで理解を確認することもできる。
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イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』
その数学が戦略を決めるその数学が戦略を決める
(2007/11/29)
イアン・エアーズ

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 絶対計算とは何だろうか。それは現実世界の意思決定を左右する統計分析だ。絶対計算による予測は、通常は規模、影響力を兼ねそなえている。データ集合の規模はとんでもなくでかい――観測数の点でも。分析の速度も加速している。データが出てきた瞬間に、リアルタイムで定量計算されることが多い。そして影響力もすさまじいことがある。象牙の塔の学者先生が内輪うけの学術論文を量産するような話とはちがう。絶対計算は、手法改善を求める意思決定者たち自身が――またはかれらのために――行うものだ。

イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』


 データマイニングに関する本で何かおもしろいものはないかと探していて見つけた一冊。

 記憶装置の急速な進歩やネットワークの普及などで、大量のデータを集めること、記憶すること、そしてそのデータを解析することが難しいことではなくなってきている。

 本書はそういった大規模なデータベースの解析を「絶対計算」と呼び、そこから導かれる予測が経験に裏打ちされた玄人の直感的な予測を超える精度を持つこともあることを、広く一般向けに伝えようとするもの。

 主に取り上げられているのは二つの手法。既存のデータを利用する場合には回帰分析、データがなくても無作為化抽出テストを使って検証することができる。
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中北徹『国際経済学入門』
国際経済学入門―21世紀の貿易と日本経済をよむ (ちくま新書)国際経済学入門―21世紀の貿易と日本経済をよむ (ちくま新書)
(1996/09)
中北 徹

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 問題は、社会資本の整備を行う場合、その担い手が政府であるべきか、それとも、できるだけ民間が主体となって事業を推進するべきかである。顧みれば一九八〇年代前半は、当分資本の整備・充実を行って、高齢化社会の到来にそなえるべきであった。作り出される財政赤字が当時の経常黒字を縮小して余りあるという政策を遂行することは歴史的な好機であり大転換を意味していたであろう。しかし、今ではこの機会は失われ、バブル崩壊とそれによる財政赤字の巨大化によってその道は封じられている。
 しかし、この政策を実施するにあたっては何がこの社会にとって優先する課題であるかを明確にして財政支出の見直しを徹底的に進めることである。言いかえれば、高齢化社会へのインフラ時整備が緊急かつ優先する課題である以上、どこに財政が手厚い手当てを与えるべきかの議論が必要だ。たとえ現在の既得権を剥奪することになってもそれはやむをえないとする合意が必要である。

中北徹『国際経済学入門』


 最近の経済状況のこともあって、国際経済に興味があり読んでみた。

 比較優位やヘクシャ・オリーンの定理などの基礎理論的な説明はほとんどなく、主に日本の経済を分析しながら、国際収支や為替などにかかわる問題を説明していく。

 そういった意味では、入門という割にはある程度の予備知識が必要になる。しかし数式などもほとんど出てこず読みやすいし、面白く読むことができた。

 キーワードは市場化と規制緩和で、個々のトピックでも結局はそれを推し進める政策こそ国民に利益をもたらすという立場で議論が行われている。
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モンテーニュ『エセー(4)』
エセー〈4〉 (ワイド版 岩波文庫)エセー〈4〉 (ワイド版 岩波文庫)
(2002/07/16)
ミシェル・エイクム・ド モンテーニュ

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 普通一般の義務を逃れる人々、実直な人間を市民生活においてしばっている無数のいろんなつらい規則を逃れる人々は、私から見れば、いかに特別な苦行をわが身に課しているとしても、とんだ骨惜しみするものだと思う。それはある意味では、よく生きる労苦を避けようとして死ぬことである。こういう人々は別の褒美を得ることはできても、困難の褒美を得たとはけっして言えないと思う。いや、難しさの点では、自分の義務をあらゆる面で忠実に履行しながら、この世界の荒波の押し寄せるなかに、しっかりと立っていることにまさることはないと思う。おそらくぜんぜん女なしですますほうが、自分の妻と一緒にいてすべての点で立派に振舞うことよりも容易であるし、貧乏にしているほうが、富裕のなかで節度を守るよりも、ずっと気苦労がなくてのんきである。理性に従った享楽は禁欲よりもつらい。あるのを節制するほうが、ないのを我慢するよりもずっとつらい徳である。小スキピオの正しい生き方にはたくさんの方法があった。ディオゲネスの正しい生き方には一つの方法しかなかった。後者の生活は純潔という点では普通の生き方をはるかにしのいでいるだが、稀有な、完全な人々の生活は、有用さと力強さの点で、同じくらいはるかにディオゲネスの生活をしのいでいる。

モンテーニュ『エセー(4)』


 岩波文庫版「エセー」四分冊目読了。退屈まぎれに思考の推移を追うために書き続けられた「エセー」も、この巻で三巻本の二巻まで進んだことになる。

 三分冊目は、異色の「レーモン・スボンの弁護」に丸々費やされたが、モンテーニュの筆はまた短い論考を連ねるいつもののスタイルに戻っていく。

 他人の評価を気にせず、自らにとって大事かどうかを問うモンテーニュの姿勢はこの巻でも一貫していて、その個人主義的な考えに惹かれる。

 古臭いところも少なくないし、体系だってもいないけれど、度を過ごさない語り口も魅力的。
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山本七平『現人神の創作者たち』
現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)
(2007/10)
山本 七平

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 ここで直方が言っていることはきわめて明瞭である。中国と日本、というよりむしろ中国思想と神道は基本的発想が全く違うから、その中から自分に都合のよい『拘幽操』をとりあげて、中国で聖人とされている湯武を否定し、それで「神儒妙契」などといっても無意味だということである。事実、禅譲であれ放伐であれ、ともに万世一系すなわち「皇統相続テ、姓ヲ易ヘ命ヲ革ルコトナキヲ尚ブ主張スル」思想とは全く別、禅譲は平和革命、放伐は武力革命であり、いずれにせよ中国の「国体の本義」は「革命」だということを無視して、「七ツ道具」で何やら証明したところで、それは「浅マシキコト」「ヲカシキ筈ノコト」にすぎない。

山本七平『現人神の創作者たち』


『禁忌の聖書学』でご子息の山本良樹さんが病床でイエス伝を書かずに済ませられないか、ともらしたエピソードを紹介していた。それは父にとってあまりにクリティカルだからと。

 私が読んだ著者の聖書関係の本では、イエスへの言及があっさりとしているように思われたのも、そういった事情があったのかもと印象に残った。

 それはさておき、良樹さんがイエス伝のほかに挙げている著者の書こうとしたものに、本書のテーマである「現人神」も含まれていたように思う。

 本書のあとがきでも著者は戦後二十年の沈黙の間、現人神の創作者を探していたと書いていて、「命がもたない」といわれるような作業を行っていたらしい。
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