深海魚の水槽
読んだ本のメモなどを残していく予定です。
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W. B. イエイツ(編訳)『ケルト幻想物語』
ケルト幻想物語 (ちくま文庫)ケルト幻想物語 (ちくま文庫)
井村 君江,W・B・イエイツ

筑摩書房
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おすすめ平均 : 5つ星のうち3.5

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「おおどうか、私の哀れな魂に慈悲をおかけ下さい」と司祭は懇願した。
「おや、何だと! では、おまえにも魂があると言うのか」天使は言った。「どうしておまえは魂を見つけたのか、言ってみるがよい」
「あなたが姿を現わされてからずっと、魂は、私の中で打ちふるえております」司祭は答えた。「以前に魂のことを考えなかったとは、私はなんと愚か者でございましたろう」
「まったく愚か者だ」天使は言った。「もし、学問や知識が人間に魂があることを教えないのなら、それはいったい何の役に立とうか」
「おお、貴方様」司祭は言った。「私が死ぬ運命にあるのでしたら、どうぞ教えてください。いったいどのくらいで天国に着くのでございましょうか?」
「お前は決して天国に着けはしない」天使は言った。「お前は天国の存在を否定しているではないか」
「では、私は煉獄にまいるのでございましょうか?」
「おまえは、煉獄をも否定している。おまえは、まっすぐに地獄へ堕ちねばならぬ」と、天使は言った。
「しかし貴方様、わたしは地獄も否定しております」司祭は応じた。「だから、あなたはわたしを地獄へ送り込むことはできません」

W. B. イエイツ(編訳)『ケルト幻想物語』「司祭の魂」


 このブログを始めた頃にイエイツの『ケルト妖精物語』のことを書いた。この『ケルト幻想物語』はその姉妹編になる。

 というか、もともとはイエイツがケルトの民族伝承を集めた2冊の本をまとめた。その訳書から文庫化の際に、妖精に関するものを抜き出したのが前者、その残りをまとめたものが本書ということになるらしい。

 そもそもこの本を手に取ることになったのは『燃えあがる緑の木』でイエイツに興味を持ったことと、某18禁サウンドノベル(のアニメ)でクー・フーリンのことを知ったからである。だから、本当はこちらが目当てだったのだけど、当時『ピーター・パン』を読んだので『妖精物語』から手をつけたのだった。
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犬養道子『旧約聖書物語』
旧約聖書物語 増訂版旧約聖書物語 増訂版
(1977/01)
犬養 道子

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 エレミアのもひとつの特長は、使命を与えた神の前に肩肘を張らぬこと、強がらぬこと、であった。辛いと訴え、「なぜ、なぜ」と神にたずね、父に対する子のごとく、友に対する友のごとく、洗いざらいを示し出す親しみであった。そしてこの点にもまた、彼の使命があったと言ってもよいかもしれぬ。すなわち、神をよそよそしく奉ってしまわず、己が弱さとして、神にすがりつきつつ、わからぬことはわからぬとして訴え訊ねつつ、苦しみを苦しみとして神の前に泣きつつ生きた。幼な子のような正直さである。

犬養道子『旧約聖書物語』


『聖書の常識』を読んだときに少し触れたけれど、旧約聖書は、「ヨブ記」を除けば、『アブサロム、アブサロム!』に挑戦したときに「サムエル記」まで読んだきりだった。

 続きを読みたいと思いながら、聖書はなかなか高価でもあるし、訳もいろいろあったりで、とっつきにくいものを感じていた。そんなとき本書が旧約聖書の全体をつかむのにいいという評判を聞き読んでみることにした。

 以前から名前は知りつつ、そのタイトルから旧約聖書をモチーフにしたフィクションのような気がして、あまり食指が動かされてこなかった。
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内田樹『私家版・ユダヤ文化論』
私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)
(2006/07)
内田 樹

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 これらの一連の現象に通底しているのは、夾雑物なき純良な国民国家のうちに国民が統合されていることが「国家の自然」であるという日本人の願望(あるいは妄想)である。そのような単一体として国民国家を想定する人々は、国民国家が複数の流動的要素がたまたま一時的に形成している過渡的な「淀み」のようなものであり、いずれ時が来れば、生成した時と同じように解離してゆくものだという、通時的な流れのなかで政治過程を理解することを嫌う。国民国家というものはソリッドで「万世一系」の単体でなければならないという前提の妄想が、入力と出力がペニー硬貨とガムのように対応する「閉鎖系」を要請するのである。
 ここまでわかったことの一つは「ユダヤ人から見た日本の歴史」は「日本における反ユダヤ主義の歴史」と同義だったということである。今一つは、日本における反ユダヤ主義は情報の欠如によって発生したものではなく、むしろ欲望の過剰が呼び求めたものだということである。
 本書の冒頭に私はこんな問いを置いた。「日本人はユダヤ人という観念を手に入れることによって、何を手に入れようとしたのか?」。私はこの問いにとりあえず近似的な回答のようなものを提出できたのではないかと思う。
 明治期の「日猶同祖論」を通じて日本人が手に入れようとしたのは、「聖史的=霊長的子種」ゆえの受難という「物語」であった。この「物語」によって日猶同祖論者たちは世界史的な通用性がある(ように彼らには信じられた)「血統神話」を手に入れた。大正期の近代反ユダヤ主義を通じて日本人は陰謀史観という「閉鎖系の政治学」を手に入れた。

内田樹『私家版・ユダヤ文化論』


『健全な肉体に狂気は宿る』でよくも悪くも強烈な印象を残した内田氏。その代表作かなと思われる本書を読んでみた。

 やはり普通に生活しているだけでも、「ユダヤ陰謀論」に出くわすことはままあって、ユダヤ人には少なからず関心があった。

 本書はユダヤの文化を語ったものというよりも、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」という問題に取り組み、その背景にある理由を探るもの。
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山本七平『禁忌の聖書学』
禁忌の聖書学 (新潮文庫)禁忌の聖書学 (新潮文庫)
(2000/03)
山本 七平

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 聖書がヨーロッパ文学に大きな影響を与えるには、まず聖書自体がヨーロッパ文学の伝統的な形態にならねばならなかった。ユダヤ教徒とカトリック教徒の聖書の中の分け方は違う。一方は律法・預言・諸書であり、他方は
歴史書・教訓書・預言書である。この律法を歴史にしてしまったのはヨセフスだが、この違いは決定的である。というのは、律法ならばそれは時を越えて遵守すべき永遠なる神の掟だが、歴史ならそれは、過去においてこういう掟があったという記録にすぎない。それは継承もしうるし止揚もできるし、過ぎし日の物語として読むこともできる。そうなれば旧約聖書の歴史書の中の面白い物語は、当然にそれ自体が西欧の物語文学として読まれうるし、また文学・美術の素材となりうる。ユダヤ人も後に旧約聖書を法規と説話に分けた。だが説話は西欧文学とはとは別のジャンルに属する文学形態であり、その文学的発展は、年とともに大きな開きを見せるようになった。
 ではヨセフスのやったことを一言でいえばどうなるであろうか。彼は『ユダヤ古代誌』というヘレニズム世界の文学の中に聖書を組み込んでこれをヨーロッパに提供したのである。ここに文学の中の聖書の最初の例があるといってよい。ユダヤ教徒は絶対にそのようなことはしなかったし、するはずもなかった。

山本七平『禁忌の聖書学』


 本書は、聖書が文学や絵画に影響を与えた部分を、原典に当たりながら読み直していくもの。「聖母マリア」や「処女降誕」といった題材がどのように受容されていったのかを辿っていく。

 その他に、ヨセフスが果たした役割や創世記のヨセフ物語、ヨブ記、雅歌、最後の晩餐といったテーマが扱われている。

 現在一般に読まれている聖書はルターが旧約はヘブル語、新約はギリシア語を原典とすべきとしたが、それまで西欧で受容されていたのはギリシア語に訳された「七十人訳聖書」であり、その文学や絵画への影響を考えるには「七十人訳聖書」に当たる必要があるとする。
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山本七平「聖書の旅」
聖書の常識 (山本七平ライブラリー)聖書の常識 (山本七平ライブラリー)
(1997/11)
山本 七平

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 こういったことは理屈ではない。民族は民族としての心情をもつ。それを外部からおかしいと言っても、雑音じゃないかと言われても、その言葉自体が意味をなさない。従って、彼の心情を持ち得ぬ私が、本物のベドウィンと彼の言葉から別のことを感じても、またそれが、不知不識のうちに彼が予期したであろう共感とは全く別のものであっても致し方あるまい。聖書に関する知識や知識関心なら彼と競うことも共有することもできる。それによって、国境も伝統も民族性も越えて親友になることもできる。だが、あの感動は共有できない。知れば知るほど、それが相互に不可能であることを知る。それを無視して「相手の立場に立って」などと言っても、その言葉自体が無知の表白にすぎないのであろう。私はこの点で、サムの人格的な位置に立つことはできない。

山本七平「聖書の旅」


 この「聖書の旅」は、ライブラリー版の『聖書の常識』に併せて収められているもの。イスラエルの旅行記で、表題作に劣らず興味深い。

 イスラエルを何度も訪れている著者が、聖書ゆかりの地を訪れながら、ユダヤ人の歴史をたどっていく。出エジプトからバビロン捕囚までたどったあと、ヨハネやサロメまでの時代までとび「ユダヤ戦記」に描かれたディアスポラまでが描かれている。

 当時のイスラエルに住むアラブ人やユダヤ人と交流し案内を乞いながら、聖書の時代を往き来する筆からは、著者の感慨が伝わってきて面白い。
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